6:The Hands of the M

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6:The Hands of the M
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パーティで出会う花を贈られる食事をする
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The Avengers

 下院議員委員長の妻がやってる難民支援パーティではじめて会った。
ナターシャはふと思い出す。あまり考えたくはないのだけれど父に似ている。
鍛えている身体。黒い髪、女性に丁寧に接して優しく微笑む。黒い髪をリキッドでオールバックにして、アルマーニのスーツで決めている。碧い目が清々しい。中国系のビジネスマンと聞いていたので、勝手に野暮ったい細面を想像していたので驚いた。
 そのことをそのまま伝えた。酔っ払っていたので仕方ない。しこたま呑んできたので、呂律も回ってなかったかもしれない。彼は微笑んだままだった。
「よく言われます、Missスターク」
「気を悪くなされたかしら?」
「驚いた、ということは思ってたのと違うということでしょう?」
「えぇ。想像していた方とは違うわ」
「わたしは、あなたとお近づきになれることを期待してアメリカにやってきました。そんなふうに思ってもらえて光栄です。Missスターク」
 右手を優しくとってからKISS。紳士的なイイ男だと思った。
ナターシャが思ったのと同様に多くの女性がそう思ったのだろう。徐文武こと中国系の投資会社社長はイイ男だった。
ナターシャは彼の指がそれぞれ違う石の指輪を着けてるのを不思議に思った。だが、いろんな女性に視線を送られている徐文武の横に居座って聞くのも面倒なので、やめておいた。
 どうしても出なくてはいけないパーティにはでるしかない。会社の会議なら仏頂面のままでも構わないが、パーティーはそうもいかない。デコイでは誤魔化しきれない。もうパーティになんの興味もなかったし楽しいとも思えなかった。
アフガンでのあのことがあってから、保守的な資産家たちはナターシャと距離をとるようになっていった。それを嘆くのも面倒だし、訴えるのはもっと面倒だ。顔だけだして、いっぱいひっかけて、帰るつもりだった。
 このパーティもそろそろ潮時だと思って運転手のハッピーに連絡した。小切手を切ってホストにわたして帰ろうと、扉のほうに足を向けた瞬間だった。
 うっかりしていた。窓ガラスを割って押し入ってきた黒ずくめの男。
なんの準備もしていない。
悲鳴が聞こえる。
 ナターシャはなんとか受け身をとって、どうにかしてアイアンマンのアーマーを装着する隙を作りたかった。だが難しい状況だ。
パーティは大盛況。人目がありすぎる。どうするべきか、逡巡している一瞬の隙だった。
徐文武はナターシャをかばいながら、男の顔面に重い拳を打ち付けた。腰をおとした、ちゃんとした訓練のすえに身体で覚えた正拳突き。
痛そうだ、と思ってるあいだに黒ずくめの男は小刀をふった。顔面を殴られながらナターシャを狙ったのだ。それを寸手のところで払う。
 割れた小刀の刃がナターシャの頬に傷をつけた。
「きゃっ」
その短い悲鳴のあと、徐文武はもういちど息を整えて拳を放った。黒ずくめの男の低いうめき声のあとの慌てた声。
「ご無事ですか?ナターシャ」
 つい見とれてしまった。イイ男だと、ぼんやり思ってしまった。
自分のほほに手をやる中国人。その指にも指輪。10個の指輪はそれぞれ石が違う。左手の薬指の指輪をつい見てしまう。青白いダイヤのような石だった。
 アイアンマンなんかしてるのだから、怪我をすることはある。
頬の傷はたいしたことない。だがジャーヴィスはそう思ってない。ぷりぷりしてる。
「イライラしないの」禿頭にKISSしてやる。「おはよう、ジャーヴィス。ところで、これはなんなのかしら?」
 怒っていたジャーヴィスが一気に笑顔になる。
「徐文武さまからのお詫びの品でございます」
「なにそれ?」
昨晩の襲撃の正体をまだ聞いていない。S.H.I.E.L.Dやアベンジャーズに支援しているナターシャ・スタークを狙ったのだからということで、男はヘリキャリアに収監された。いま尋問を受けているだろう。
軽い怪我を負ったナターシャにスティーブはあからさまに不機嫌だった。キミが怪我をしてどうすると叱られた。謝ったがまだ怒っているだろう。
 パーティで襲われたこともさながら、それを無関係な市民に救ってもらっていたというのがスティーブには腹がすえかねる問題だった。
守るべきものに、守られてどうするという彼の言い分はわかる。
無計画な女社長をかばって詫びの品を送る言い分のほうがわからない。
「詫びって言った?」
「言いましたよ。お嬢さまのお顔に傷をつけてしまったことが悔やまれると、カードに」
 リビングにあふれんばかりのピンクのアルストロメリア。薄い花びらが広がる気品ある花。ジャーヴィスから渡されたカードには細い手書きのメッセージ。ジャーヴィスの言ったとおりの言葉。
「なんだか悪いわね。こっちもなにかしないとね」
「カードとマフラーでもお送りすればいいのではないでしょうか?新聞で見ましたが、首が寒そうでしたよ」
ジャーヴィスが広げた新聞は一般紙と一緒にゴシップ誌。ゴシップ誌の一面はナターシャと徐文武。いいアングルでナターシャをかばう中国人の姿が撮られていた。
「怪我してないのかしら?」
「新聞によると無傷のよう。いい男性ではありませんか。経歴も申し分ないですし、独身ですし、ハンサムで学歴も、会社も素晴らしいじゃありませんか」
「調べたの?」
「新聞に書いてある程度には。お嬢さまとお似合いだと思いますよ。ローディーさまと別れたことですし、問題ないタイミングではないですか」
「その話はやめて」
 ジェームズ・ローディーとは先々週別れた。手切金に型落ちしたアーマーをくれてやった。どうせろくに動かせやしないと思っていたが米軍は有能だ。装飾を落としウォーマシーンと名前を変えた自作アーマーのニュースはときどき流れる。見るたびにアフガンの洞窟のことを思い出す。自分が昔と変わってないことを突き付けられて、SEXしたいときどうしたらいいのかわからない日が先週まで続いていた。
若いアベンジャーズをタワーで面倒みてるのだから見返りを求めてもいいと気づいた。気を紛らわしてくれるのならなんでもいい。男でも女でも、人間でもミュータントでも、なんでもいい。アメリカ人でも中国人でも、メキシコ人でもいい。スクラルだってかまわない。
「いい男っぽい。SEXもよさそう」
「本人の前でやめてくださいよ」
「本人の前ではさすがに言わないわよ。仕事が絡んでる男とは寝ません」
 クリントやピエトロは店で買う電動のオモチャと同じだ。
飯を食わせてやってる男に対価を支払ってもらっているだけだ。
 仕事が絡んでる男だとそうはいかない。アベンジャーズがどうなろうが知ったことではないが、スターク社の社員に関しては責任がある。
「キレイなお花でございますよ」
「やめてよ」
「そうでございますかねー」
お似合いだと思いますけどねー、と言いながらジャーヴィスは朝食の準備を終わらせる。カードとマフラーの目録も用意する。主人はパンを口にしながら終わらせる。
「あなたのおかげで助かりました。あなたの勇気と優しさに心から感謝します。」
執事は文面に納得しない。
「もう少しこう、可愛らしさを出してですねー」
「ジャーヴィス、うるさい」
「でも、いいお方ではありませんか。これだけのお花をこの時間に用意してくれるなんて」
「そうね、花の趣味はいいわね」
ピンクのアルストロメリアは好きな花。赤ほど主張が激しくないけどとても綺麗で匂いもいい。
「お礼にお食事でもと、こう書き足してください」
「なんでよっ」
「ここまでしていただいてマフラーで終わらせる気ですか?」
「マフラーって言ったのジャーヴィスでしょっ」
執事にこれ以上いわれたくないので、言うまま書き足した。そして会社に行った。
「おはよう、ポッツ」
「おはよう」
 目を奪われた。
社長室にも大量のピンクの花とカードが送られていたのだ。

 

 徐文武はプレゼントしたマフラーに似合うスーツを着込んで待っていてくれた。
「Missスターク」
そういってやわらかく微笑んで手をとって、片足をついてKISSしてくれた。昔、そんなふうに男性たちが扱ってくれたのを懐かしく思い出した。
「遅れてしまったかしら?申し訳ありません。Mr.徐」
「文武と呼んでください。お招きしていただいてありがとうございますMissスターク」
「では、あたしのこともナターシャで構いません。来ていただいてほんとうにありがとうございます」
 徐文武は手の甲でナターシャの頬をなぜ、もつれた髪を後ろに流す。女は身体が固まっていくのを感じた。背中から冷や汗がじわりと垂れる。
 隣のポッツに、助けてくれと念じる。彼女は優秀だ。割り込むように手をのばす。
「今日はお招きいただきまして、ありがとうございます。Mr.徐」
自分の主人が精神的に不安定なのを宣伝する必要はない。ポッツは部下として、友人としてナターシャをかばった。親しくない男性と同じ部屋にいられないなどとゴシップ誌に書きたてられることはポッツの収入にも関わる。
徐文武はにっこりと笑った。
「お初にお目にかかります。Missポッツ。あなたも本当に美しい」
「ありがとう」
 ナターシャに男のあしらい方を教えたのはポッツだ。遊び人だったトニー・スタークを射止めて女遊びをピタリとやめさせた。徐文武を見定めるようジャーヴィスに頼まれている。それ以上にナターシャを見てやらねばならない。
ローディーと別れてから男遊びに歯止めがきかない。それは男遊びというより神経症のたぐいだと聞かされて頭をかかえた。ただでさえ注目をあびる女社長がアベンジャーズをとっかえひっかえベッドに誘ってるなんてゴシップ誌がよだれを垂らして食いつきそうなネタだ。書かれた日の株価のことなんて考えたくもない。物珍し気に近づいてくる男がいるならさっさと結婚してしまえばいいと思っていた。中国に嫁いでしまえば、会社のことを考えずにゆっくり休んでくれるかもしれないという期待もあった。
 ポッツの淡い期待をじわじわ削いでいくように、ナターシャの顔色は悪くなっていった。細かい指の震えを悟られないように、手を抑える。その手の裏の意味を見抜ける男だった。
「どうかしましたか?ナターシャ」
「ああ……」必死でいろいろ考えたが、なにも出てこなかった。
「わたしがなにかしましたか?ナターシャ」
 その碧い眼に敵意はないように思える。だが怖い。ポッツが肩に手をおく。
「すいません。ちょっと緊張してるみたい」
 恐怖が口のなかを乾かしていく。徐文武はあくまでも優しい声音。
「わたしが恐ろしいのですか?ナターシャ」
「いえ、そうじゃなくて」
「あなたを傷つけるとでも?」
「いえ」
 目を合わせる。逃げるべきではない。ビジネスにかかわってくる。中国の投資会社と敵になるべきではない。トイレにいってザナックスをもう少し飲もう、そう決めたときだった。徐文武は優しく微笑んだまま、ナターシャの背中に手をまわした。
「ひっ」
 意識しないまま声がもれる。恐怖が背中を凍らせる。ふりほどいて逃げたかった。走って帰りたいと思った。視界の端でポッツがあぜんとしてるのを見て、助けろと思ったが遅かった。身体が動かない。動かないまま徐文武の胸のなかで呼吸していた。
 そんなに長い時間だったわけじゃない。
だが自分の呼吸が落ち着いていくのを感じていた。呼吸だけでなく、動悸も震えもなくなっていくのを感じていた。胸に手をやって距離をとり、自分の手を見た。
 汗もひいているのがわかった。
「どうして……」
 いまでも苦手な部下がいるというのに。
徐文武の声はどこまでも優しく、洗練されていた。
「わたしは、あなたに会うため中国からやってきました。ナターシャ」
「はぁ」
としか言えない。
「わたしの国にはあなたほど強く凛々しい女性はいません。自らに降りかかった不幸に嘆くことなく、立ち向かうあなたはほんとうに素晴らしく立派な美しい女性です」
「ふふっ」
 ポッツが後ろで笑った。
「なにかおかしいことを言いましたか?」
ポッツは小さく首をふった。
「この子にそんなこと言ってくれるひとは少ない」
 かぶせるように言った。
「あなたに英語を教えた先生は立派の意味を間違えているだけ」
 こんどは徐文武が笑った。
「美しいは、間違えていないでしょう?」
手をほほに添えられる。碧い目がずいぶんと間近にあった。
少しだけ低いやわらかな声が耳元でささやく。
「あなたはほんとうに美しい。ナターシャ・スターク。写真でみるよりも何倍も、あなたは綺麗だ」
 言われて嬉しくないわけもない。だが、どうしても素直に笑えない。そんな歯の浮くような台詞で無かったことにできるような出来事じゃない。そのことを徐文武もわかっているようだ。
「震えがなくなったところで、食事にしませんか?ナターシャ」
「えぇ……」
 距離の詰め方が大胆すぎて戸惑う。だが、つい笑ってしまったのも彼の笑い方がほんとうに優しかったからだ。戸惑う上司をフォローするために来たのがポッツ。
「中華料理は飽きておられるかと思って、アメリカの牛肉を用意しました。堪能してください。あなたの口にもきっと合います」
「美しい女性とともにするディナーなら、どんな肉でもご馳走です」
「なら、今日のディナーはきっと絶品ですわ」
 こういう会話も懐かしいな、とナターシャは思った。
なにを話したのか、正直あまり覚えていない。ただ正面の徐文武はずっと微笑んでいた。にやにやと笑うのではなく、穏やかな表情で碧い目を細めてナターシャを見ていてくれた。ポッツも穏やかに笑っていた。
 彼が会話のはしばしに、あなたは美しい、素晴らしい女性、立派な振る舞いと言ってくれるのを我がことのように喜んでいた。あのことがあってから、彼女にこんな甘い言葉を囁いてくれる男はいなくなっていた。それをよくわかっていたからだ。
 ナターシャにしてみれば、浴びるように受けていたころはなんとも思ってなかった言葉が、忘れていた部分を少しずつあたためてくれているようだった。
目をそむけていた部分に血がかよっていく。酒がはいったこともあって、ナターシャも話せるようになった。店がしまるまで、笑い声が絶えなかった。そして徐文武はどこまでも紳士的だった。
 ちゃんと日付が変わる前に、屋敷に送ってくれた。
「今日はほんとうにありがとう。とても楽しかったわ」
「わたしもとても充実した時間でした、ナターシャ。あなたはやはりわたしが思ったとおりの、いえ思っていた以上に素晴らしい女性でした。また、わたしと会っていただけますか?」
 断る理由もとくになかった。中国の投資会社と仲良くしておくのに越したことはない。
「喜んで。次はあなたのオススメの中華料理を教えてください」
「いいですね、ナターシャ。中国には女性を美しく見せるドレスがあります。あなたにきっと似合う。お送りしますよ」
「楽しみです」
 そういって、笑って、はベンツにのって帰っていった。
KISSぐらいしてやってもよかったのに、と心のなかでナターシャは呟いた。そこまで自分を安くする必要もないかと、次の瞬間には思い直した。そして、こういうものの考え方をする自分をずいぶん、懐かしくも思ったのだ。
次の瞬間、ケータイにポッツからの「合格」というメッセージが届いた。

 

 次の日にも花が届いていた。ピンクと黄色の百合が届けられていた。
量が前回より少なくてちょっと安心した。
「まだアルストロメリアが美しい盛りですからね。このままだとスターク邸は花問屋みたいになってしまいます」
「そうね」
 リビングの窓にずらりと並べた花束。この感じもずいぶん懐かしい。
「昔はよく花が届けられたわよね」
「お嬢さまはモテますから。どんな男性でもお嬢さまの美しさには敵いません」
「そんなこというのジャーヴィスだけよ」
「そんなことありません」
 今朝の新聞を手渡される。
一面にまた徐文武。そしてパリス・ヒルトン。
「元カレがセックステープをリークしましたからね。別の話題が欲しいんでしょう。本でも書いたほうがいいと思いますが」
 ジャーヴィスの意地悪な見立てはゴシップ誌の受け売りだ。どうやらインタビュー番組でいま狙っている男は徐文武だと言ったらしい。結婚したいとまで言ったらしい。生放送で。
ナターシャの背中が泡立つ。パーティで顔を合わせることはあったが、ここにまとめられたくはないと思って距離をとってた。ナターシャもたしかに親の会社を引き継いではいるが、経営にも携わっている。同じソーシャライトのように扱われたくはない。ビジネスウーマンでありつづけたい。ウェイン産業の会長のように実務から手をひくことも考えたが、ここにまとめられるのがイヤだったので実務にこだわってきたのだ。
「この写真……」
「前のよりアングルが悪いですね。屋敷のまえに張られていたんではないですか」
「信じられない」
 屋敷のまえ、近い距離で話し込んでいるナターシャと文武。
紙面にはナターシャ・スタークとパリス・ヒルトンと、徐文武とアイアンマンが火花をちらしていた。
「4分の2がお嬢さまなんですから、おおむねお嬢さまの勝ちですよ」
「そういうんじゃない」
 ジャーヴィスは嬉しそうに朝食をだしてくれた。
会社も大騒ぎだった。ポッツも呆れている。
「ごめん。ホント、ゴメン」
「ま、悪い騒がれ方じゃないからいいけど」
 渡された書類には新しいエネルギーを抽出するための変換器に必要な部品が予定よりもはやく届くことが書いてある。
「これって……」
「たぶん、例の男じゃない。うちの積み荷だけはやく来るわよ」
「信じられない。外務大臣にいっても法務大臣にいっても武器輸出で書類申請しろって言われたのに」
「いまのうちが軍事関連で書類だせないことを知っての嫌がらせだったのにね。知らないうちに彼が手を回してくれたみたいよ」
机のまえには大きな箱。赤いリボンをつけられた白い箱。中身なんか見なくてもわかる。
「たぶんサイズも問題ないんだわ」
「机においたときカサカサいってたから、チャイニーズドレスだけじゃないわ。たぶんアクセサリーもはいってる。当然カードもね」
ナターシャは顔を覆った。
「外堀埋められてる……」
「手筈のいい男ね。逃げにくいわよ、こういう男」
「嬉しそうに言わないで」
「いいじゃない、ひさしぶりでしょ。こういうの。屋敷の馬鹿どもと慰めあってるんじゃなくて、たまにはちゃんとした男と恋愛しなさい」
「馬鹿どもね……」
 クリントとピエトロは都合のいい相手だった。ティチャラともハーキュリーズともビーストともやったが、ソーには断られてる。最近はあまり自分に近寄ってこないのも体感的にわかっていた。
「まともな恋をしなさい。ハッピーに近付くのは辞めなさいよ」
「まとも……」
 酔っ払った勢いでハッピーに迫って殴られたことを知らないんだなと思うだけにしておいた。
 自分に近付く男の下調べはちゃんとする。時期が時期なので当然だ。だが徐文武のそれは予想をとびこえていた。
「中国共産党の創立党員の末裔?」
「とっくに解散したことになってるコミンテルンの中国代表を務めてるとかなんとか」
 渡された書類を見る。中国語は苦手だが読めないわけでもない。
「中国の実質的支配者のひとりって書いてるけど?」
「中国共産党に彼の名前はないけど、席はいつも用意してるんですって」
「これ……マジなの?」
「どうでしょうねぇ。あの国は裏どりがしにくいうえに規模がデカいからねぇ。探してすぐ出てきたっていうのが胡散臭い」
 怖くなって書類を手放す。
「冗談だとしたらタチ悪いわ」
「本当だとしたら、すごい男よ。チンギス・ハーンの子孫ってマジで言ってるのかしら」
「ただの投資会社の社長じゃないの?」
「その会社の資本を見て。これだけ中国のことを支配してるって書いておきながら、その会社の資本は元じゃないのよ。ぜんぶユーロなの。ヨーロッパからの銀行の支援で設立したってあるでしょう」
「母親がイギリス人っていうのは聞いたけど」
「ところが銀行からの支援はごく微量。そこからは全部彼の投資で大きくなった。そのときの投資先も全部ヨーロッパなの。彼の会社の動向がユーロの相場を左右するとまで言われてる」
「中国とヨーロッパの経済を抑えてるってこと?」
「あたしが彼なら次のターゲットは北米ね」
「……」
 ポッツでもそうする。ナターシャもそうする。
「アメリカでなにをするつもりなのかしら」
 新聞を指さす。そこには徐文武がNYに花嫁を探しに来たと書いてある。ゴシップ誌は好き勝手なことを書く。徐文武の顔の横にナターシャの顔写真。だがその顔はパーティに出ているときのような華やかな表情ではなく、アフガンから救出されてボコボコに殴られていたときの顔だ。徐文武がパリス・ヒルトンとデートしてナターシャはノックアウトされたと書いてある。
「1回目のデートを断ったら、こういうことしてくるのね。なかなかイヤらしいことしてくる男だわね。気をつけなさい」
「気をつけるってなにを?あたし、どうしたらいいの?」
「付き合っちゃいなさいよ、いい男じゃない」
 机のうえには徐文武からの招待状。前回のデートをアイアンマンの業務で断ったのだが、彼には急用としか伝えてない。届いたカードには気にしないでほしいと書いてある。あと、とても悲しかったと、とても寂しかったパリス・ヒルトンとは新聞にあるようなことはなにもなかったので許して欲しいとも書いてある。
「どうしよう……」
「行けばいいじゃない」
「だってなんか怖い!」
「アイアンマンがなにいってんのよ、キルモンガーと戦うよりマシでしょ」
「意味わかんない」
 これだけの権力者となったら無視することも難しい。ナターシャはあきらめて次のデートをすっぽかすのは辞めた。ビジネスとして徐文武を無視することはもうできない。
 送ってもらったチャイニーズドレスに袖を通す。
「わーお」
 ポッツも面白がってる。手触りでわかる。生地が上等で刺繍も細やかで、ハイクオリティなドレスなのは見てわかる。
「ちょっと……コート」
「そうね、着たほうがいいわ」
 面倒なことに巻き込まれているのをわかっていながら、そこに飛び込まずには、いられない。仕事だからだ。どうしようもない。社員を露頭に迷わすわけにはいかない。責任感がここに来させた。
 着いたレストランはビルの最上階だが、客はいなかった。店員が丁寧に頭を下げてくれる。外堀を埋められているのがわかる。ここは徐文武が経営してる一流中華料理屋だ。いろんなことが頭によぎるが、逃げることはできない。ポッツからあんな情報をもらったばかりなのだ。無下にできない。
 こんな男に逆らわないほうがいい。
「コートをお預かりしましょう」
 給仕が手をのばす。コートを渡したほうがいいのはわかってる。だがつい、襟元を抑えてしまう。
「あとでけっこうよ」
「あと、ですか?」
 言いたいことはわかる。外套を部屋にはいってから渡すのはおかしい。だが、エントランスで脱ぐのは恥ずかしかった。貸し切りにしているのであろう店だとしても恥ずかしい。できるだけ、後回しにしたい。とはいえ場を支配してるのはナターシャではない。徐文武だ。
「あぁ!ナターシャ・スターク」
 満面の笑みで駆け寄ってくる中国政府と強いパイプをもつらしい男。
徐文武は微笑んでナターシャとハグをする。自分が怖がられることはもうないと信じて優しく抱きしめる。当のナターシャは肩を震わしてから、呼吸を落ち着けて息を吐いた。
「お招きいただいて、ありがとうございます。前回はほんとうにご免なさい」
「あぁ、ナターシャ」後ろに束ねた髪をほどいて、ほほをよせる。この距離の詰め方はさしものナターシャでも気後れする。臆病な日本のビジネスマンなら声をあげてしまうだろう。文武はきめ細かい肌を撫でながら続ける。「あなたはビジネスマンだ。毎日、お忙しいのは理解してます。驚きはしましたが、致し方ありません。それよりも、あのようなことがニュースになってしまったのが申し訳なくて」
「新聞屋は勝手なことを書きます。気になさらないで」
 もういちど手をのばす。
「あなたのあんな写真が新聞にのるだなんて」
「あぁ……」
 いまさら悲しくもならない。
自分の罪と罰をマスコミは面白がって書きたてるものだ。
「気にしないで。ここはこういう国だから」
 行儀がいいとは言いにくいが、それが自由だと言われたら返す言葉も無い。
 いまなにをしたって、スタークインダストリアルは武器産業で大きくなった。ナターシャは死の商人だった。他人の命で着飾ってきた。
「あなたはこんなに美しいというのに」
「ありがとう」
 微笑むだけにしておいた。
後ろにまわられてコートを脱がされる。観念するしかない。傷だらけの背中をさらすわけにはいかず薄い黒い記事の長袖キャミソールを下に着てきた。それでも首筋を触られた。
「ひゃっ」
 緊張しないことは前回証明されたが触られて嬉しいわけではない。強く睨んでも微笑んで返されるだけだった。ポッツが言っていた言葉が蘇る。
 気をつけて、気をつけて。アラームを無視するかのように、文武の腕が腕をつかむ。指輪が皮膚にあたって少々痛い。
 たくましい腕に逆らうこともできない。距離が近い。
「帰りますっ」
 ポッツの怒ってる顔が浮かんだ。中国の投資会社を敵にするな!と怒鳴ってる。だが、もう怖い。震える腕に力をこめて振り払った。クロークまで走る。汗がとまらない。
 ボーイを急かすが、彼の瞳は後ろの徐文武を見ていた。
「申し訳ありません、ナターシャ!ナターシャ」
 正面にまわって腕をつかんだ。
「さわらないでっ」
 大声をだしてしまったことに後悔する暇もなかった。震えがとまらない。手先が氷のように冷たくなり、ピンヒールがかくかく揺れる。立つこともできない。もう大丈夫でしょと言ってたがやはりポッツに同席してもらうべきだった。震えをとめることができない。
「ナターシャ」
 手が頬に伸びてくる。5つの指輪が光って見えた。
「近寄らないでっ」
 アラームが止まらない。だが震えも止まらない。
「近付かないで、触らないで!」
 徐文武は両手を拡げてほほに触れない距離でとめた。
「ナターシャ、ナターシャ。どうか落ち着いて。申し訳ない。本当に、本当に……」
 体温がそこにあった。
 それが怖くて後ずさりたいのにヒールはいつものように動けない。大胆なスリットのはいったドレスにも邪魔をされて、ころんでしまった。
「きゃっ」
 足が男の前に晒されたことがさらに震えを加速させる。ロングコートをかけてから手をのばした。
「申し訳ございませんナターシャ。あなたの苦しみを知らず、追い詰めてしまって誠に申し訳ない。ナターシャ、ナターシャ。落ち着いて」
 頭のなかでポッツが叫んだ。手をとれ!いいように考えてくれているんだから、いまのうちに赤字を取り戻すのよ!
 大きく息を吐いてから腹をくくった。
「ありがとう……」
 手をとった。
右手上腕に鳥肌が立つ。いますぐにでも突き飛ばして帰りたいが、ポッツがうるさい。なんとか立ち上がって、呼吸を繰り返す。キャプテンから痛みは呼吸で整理できると聞いた。だがこれは痛みではない。
 呼吸ではなにも変わらない。
「ナターシャ……」
 彼は手を合わせて真剣な瞳で謝った。
「申し訳ない。あなたが美しくて調子にのってしまった。あなたの気持ちを考えずに振る舞ってしまった。ほんとうに本当に申し訳ない」
 アジア人は謝るときに手をあわせる。祈るように謝る。無下にすることはできない。
「へ、平気です」
 声が上ずっていた。かけられたコートを返して、なんとか正面の男を見たが震えが背中に広がる。今日はもう終り、となればいいのだが男はそうしてくれなかった。
「ナターシャ、どうか許してください。あなたをそのように追い詰める気はなかった。わたしはただ、あなたに触れてみたかった。あなたの肌を肌で感じてみたかった。それが、あなたを苦しめるだなんて思ってもなかった。どうか許して、許してください。ナターシャ」
「……」
 帰らせてほしい。その言葉を飲み込んでナターシャは導かれるまま大きな部屋にはいり椅子に腰掛けた。赤い丸い照明が天井からいくつもぶら下がっていた。だがその高さがアンバランスで光の玉がふわふわと浮かび上がっているようにも見えた。赤い陽の光が自分のドレスを偏光して浮かびあがっているのがわかった。そのためのドレスだ。どうしてもディナーをしたかったのもわかる。
「やはり、あなたは美しい。そのドレスを着こなせる女性はそうそういません。明るい赤があなたには似合う」
「ありがとう」
 出されたディナーがどれだけ素晴らしいものかわかってる。
 中国の料理は繊細だ。食材のひとつひとつを丁寧に、いささか偏執狂的に扱う。聞いてもピンとこないメニューが複雑な容器と相俟って、手の込んだ美しさが広がっていた。
「葱山椒ソースのふかひれの冷製アミューズからどうぞ。きっとお口にあいまさす」
 小さな容器に入れられたやらわかな香りに包まれたフカヒレはナターシャでもあまり見たことのないソースでくるまれていた。美味しそうに見えた。だがアラームがさっきから止まらなかった。
 いま口にすると危険だとアラームがなる。
だが断るわけにもいかない。口に入れる。
「美味しいわ」
「そういっていただけて安心しました。中国の料理は女性をさらに美しくしますよ」
「そう……」
 生返事だと別のアラーム。だが、もうスイッチがはいってしまった。最近こういうことがままある。そしてそのたびジャーヴィスを悲しませる。
「あなたには明るい赤が似合います。大輪の牡丹の花のようです。幾重にも重なる花弁は、あなたのいくつもの才能を表している」
「おかわりいただけます?」
 もう我慢できない。
脳が食欲の指令を間断なく送ってくる。こうなるともう食べても食べても止まらなくなる。正面の男が驚いた顔をしてるが、どうでもいい。いまはとにかく食べたい。
「次の料理を急がせましょう。蟹味噌をのせた海虎ザメの上湯煮込みがあります」
「フカヒレはあたしも好きだわ。なにかスープをいただけますか?」
「ツバメの巣とパパイヤを蒸したスープをださせましょう。斑鳩はお口に合いますか?」
「キジバトね。えぇ、いただくわ」
 徐文武は料理人を急かせてからもナターシャを褒め称えた。さきほどは申し訳なかった。あなたが美しいものだからと言いながら、べらべらとよく喋った。内容をほとんど覚えていない。
 食べるのに必死だった。あとでまたジャーヴィスに叱られるが知ったことではなかった。どれだけ食べたのか、どれだけ話していたのか知るよしもない。自分の給仕がずっと歩き回っていたのだけ覚えている。ドレスのウェストがきつくなっていた。
 気がつけば前も送ってもらったマンションの前だった。徐文武はそのときも「今日は申し訳なかった」といった。
「あたしのほうこそ……」
 不安から逃れるために食が止まらなくなる。こういうことが、たまにある。心の不均衡がさまざまな部分を崩していっているのだ。
「ナターシャ」
 彼の腕が自分の腕に触れる。
正面の男の瞳がまっすぐに見つめている。後悔しているようにも見えるし、困っているようにも見える。楽しんでいるようにすら見える。アジア人の表情はNYで生まれ育った彼女にはよくわからない。
「今日は本当に申し訳ありませんでした。あなたを追い詰めてしまった。あなたの苦しさを無視してしまった。ほんとうに申し訳なかった」
「こっちも、ホントに……」
 人前であの病気をだすべきではないと自分に言い聞かせてきたのに、我慢できなかった。美味しかったし止められなかった。
「わたしを許してほしい、ナターシャ。あなたを傷つけてしまった。あなたを苦しめてしまった」
「気になさらないで」
 そういうのが精一杯だった。
ゆっくりとナターシャのほほに手を伸ばした。
「許しを乞う。あなたに許してもらいたい。そして、どうかわたしを」
 受け入れてほしいと、耳元で囁いて目蓋の端に唇を落した。
抵抗できないまま受け入れていた。
「やめて……」
 とだけ呟いた。
「今日であなたととても距離が近付いたと思っています」
「そう、かしら」
 去っていく車が見えなくなってからも、すこしだけ道にいた。また車が走りだして写真を撮られたことを確認してから帰った。
 ジャーヴィスがさきに眠っていたのは幸運だ。たいてい帰ってくるまで待っているのに徐文武とディナーをするといったとき、執事はずいぶんと喜んでくれたのだ。
 変な期待をさせるべきではない。だがジャーヴィスが苦しんでいるのはゴメンだ。ナターシャはそっとレストルームに行き、薄いビニール手袋を右手につけた。吐くためだ。指を口にいれるまえに、大量の吐瀉物がトイレにぶちまけられた。
 いちど吐くと、それは際限ない。トイレにしがみついて吐きまくった。赤いチャイナドレスがわずらわしくてボタンをひきちぎって脱ぎ捨て、触れられた部分をタオルでごしごし洗い続けた。
 顔も洗い、髪も洗い、また吐いていたら心配そうに執事が後ろで見ていた。どうやら吐きながら泣いていたらしい。下着も打ち捨ていた。
「だれか呼んで」
 SEXがしたかった。階下からだれでもいい。男でも女でも良かった。だれかとSEXして眠りたかった。
「落ち着いて、シャワーを浴びましょう。それからお湯を用意します。胃を休めてあげませんとね、お嬢様」
「だれか呼んでよ」
「お嬢様」
 ジャーヴィスのしわだらけの手がほほをはさんでくれた。
「いまはやめましょう。やめてください。お酒を用意しても構いません。ですが、今日はやめてください」
 ナターシャにとってエドウィン・ジャーヴィスは家族だった。子供のときから一緒に過ごしている大切な家族。だからこそ、彼は大切なお嬢様のことなどお見通しだった。同じように彼女にもわかっていた。
「やめて、そんなの無理よ。考えたくない」
「お願いします。後生でございますから、今日はやめてください」
 結局、髪と身体を洗ってちゃんとブローしてから酒を呑んだ。急激なアルコールに胃が受け付けず、何回か吐いたがそれでも呑んだ。
 ウィスキーのボトルが2本空になったとき、やっと眠れた。ジャーヴィスは年寄りだが彼女をベッドにまで運ぶことぐらいできる。赤とピンクのアルストロメリアに囲まれたベッドルームでおろした。床に散らばっていた下品な色の玩具は全部キャビネットに押しこんである。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
 ジャーヴィスはナターシャの手を掴んで祈った。
「お嬢様は幸せになれます。大丈夫です、大丈夫ですから」
 それ以上、自分を傷付けないで欲しいとジャーヴィスは祈った。空は白み始めていた。

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