6:The Hands of the M

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6:The Hands of the M
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パーティで出会う花を贈られる食事をする
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Chapter 2

 起きたときの頭痛が酷かった。
胃の調子もすこぶる悪い。食べ過ぎと飲み過ぎと吐きすぎで、音をたて蠢いてる。
「気持ちが悪い……」
 そして今日のタブロイド紙を見るのが億劫だ。時間は正午近く。ナターシャは素肌にガウンだけ羽織ってリビングに向かった。新聞を読んでるジャーヴィスの背中に。
「おはよう」
「昼です」
 ジャーヴィスは新聞をたたんで、ミルクを温める。
「コーヒーがいい」
「今日はやめてください」
「ジャーヴィス、そればっかり」
「それが仕事です」
「ふふ」
 窓際に並ぶ赤い花とピンクの花。見ているだけで笑えてきた。
「今日、来なかったでしょ?」
「さようでございますね」
「そういうことよ。ヒステリーおこして、中華をめちゃくちゃ食べてやったわ。会社のほうもきっと取引中止がいくつかあるわよ」
「そういうふうには聞いていません。ポッツさまには連絡してあります。昼から行きますか?」
「行く」
 仕事を中途半端に投げるわけにはいかない。そんなに役員会に好かれているわけでもない。武器産業からは足を抜きたい。やることはいくらでもある。ホットミルクで指を温める。
「変な期待しちゃダメよ、ジャーヴィス。あなたのお嬢様はろくでもないんだから」
「そんなことありません。わたくしのお嬢様はだれよりも可愛くて賢い、情の深いお方です。幸せになれます」
「あたしの幸せはあなたが思ってるものと、たぶん違う」
「そうかもしれません。ただ、わたくしは過度の飲酒や男遊びをやめ、食欲を自分でコントロールできるようになっていただきたいだけです。もとのお嬢様のように笑って過ごしていただきたいだけです。それなら別に構わないでしょう?」
 曖昧に笑ってやるしかなかった。
それができたらどれだけいいか。ジャーヴィスの手際の良い腕がサンドイッチを仕上げている。
「食べたくない」
「でしょうね。これはわたくしのランチです」
「一口ちょうだい」
「いやです」
 そう言いながら分けてくれる。切り分ける段になってケータイが鳴った。ジャーヴィスのケータイは多くの番号を登録している。
「なんでございましょう?クリントさま」
 あっちから来るなんて珍しいとミルクを呑んでいた。ジャーヴィスは唐突に慌てだして、受話器を持っていないほうの手を大きく振った。なんのことかわからない。とりあえずクラブサンドイッチを拝借してやろうと伸ばした手を叩かれた。
「なによっ」
「支度なさい!お嬢様!いま下の、下の連中のトレーニングルームに徐文武さまがいらっしゃっているそうですよっ」
 ジャーヴィスは興奮していた。鼻息がもれるほどだった。
 だが髪をブローしても、ロエベのリネンのロングプリーツスカートを着てもお嬢様の顔色は悪いまま。
「もうこれが限界だって。メイクしたって、これ以上はどうにもならないわよ。厚く塗るほうがみっともないから、ジャーヴィス。落ち着いてよ」
「あぁ、お嬢様はいつももっとお美しいのに」
「夜中まで食べて呑んでたんだから仕方ないでしょ。もういい。待たせるほうが悪いわ。挨拶してくる。あなたも来る?会いたかったんでしょ?」
「わたくしが会いたかったわけではなくっ」
「はいはい」
 キャメルカラーのニットのカーディガンを羽織って階下に向かう。ほとんど立ち寄ったことのないマンションの階下は心持ち騒がしい感じがした。トレーニングルームに行くと、その正体がわかる。
 全員がレスリングマットに釘付けで、そこから鳴るグリップの音が切れ間なかった。ナターシャはレスリングを知らないが見ればわかる。抑えこんだら勝ちだ。だがおそらくノールールだ。レスリングに足技やパンチなんてないはず。
「なにこれ?」
 ワンダも興奮していた。
「あぁ、ナターシャ。すごいわね、彼」
 試合をしてるのは徐文武とスティーブ・ロジャースだった。ふたりとも普段着でせわしなく相手の動きを見た攻撃を繰り出している。
片方はアルマーニのスーツで、片方はGパン。作業着と同じように動けるのだからアルマーニは優秀だ。そして、そんなふたりの動きは映画のようにアクロバティックで目まぐるしかった。
 ふたりとも寝技に持ち込むことはなく、足技と拳で互いの距離をはかって戦っていた。
「もう10分は経ってるんだぜ、キャップ相手にここまで粘れるなんてそうとうだぜ」とクリント。
「はっ」つい鼻で笑ってしまう。「あんた、目がいいくせにどこ見てんのよ」
「はは、スタークはよく見ているな」
 ソーがとなりに立って肩を叩いた。叩いた程度だが倒れそうになった。
最近彼が自分のことを名前で呼んでくれていない。だがクリントたちが説明を求めるような怪訝な表情をしてるので気付かないふりをした。
「本気じゃないってことか?キャップが」
「見ればわかるでしょ。彼、右手で攻撃してないじゃない。さすがに払ったり防御するときには右手を使ってるけど、それ以外はしてない。彼、自分の右手を封印して戦ってるのよ。こんなにテンポはやいのに、ずっと自分を制御しながら戦えているのよ」
 ちゃんと見ておきなさいよ、と目で叱る。彼は生きた教本だ。彼の戦い方をナターシャは常に研究している。彼ならどのように戦って勝つのか、または負けるのかを考えながらアーマーを着込んでいる。トレーニングしてもらったのは1回きりだが、そのときの言葉はちゃんと文字化したし、気分がいいときは自主的にトレーニングを繰り返している。おかげで最近は戦闘方法で叱られることは減った。
「だがどうしてキャプテンはそんな戦い方をするのだ?」
「あたしのこと気遣っているんでしょ。あたしの会社の取引先の関係企業だから」
「へー……」
 クリントなんかは、やっぱキャップすげぇなと素直に感心しているがナターシャは浮かない気持ちになっていく。なんでわざわざここにくるんだと怒鳴り散らしてやりたかった。
 ふたりの試合は決定打のでないまま、なんとはなしに終わる。この呼吸で終わりを見ることができるのも彼がそれなりに鍛錬を重ねた結果なのだろう。
 ふたりは顔をあわせてうなずくように目で確認して姿勢をただして礼をした。
「光栄です。キャプテンアメリカ。よもやあなたに手合わせしていただけるなんて。師匠に自慢できます」
「いえ、こちらこそ。Mr.徐文武。あなたの師匠は体幹を軸にした合理的な身体の使い方をご教授なさっているようだ。こちらもとても有意義な時間でした」
 徐文武は肩をすくめる。
「いちどでいいから、あなたに右をださせたかった。最後まで無理でした」
 汗を拭いながら笑って答えた。
「何度か危ういパンチがありましたよ。Mr.徐文武」
「今回はその言葉が修行の賜物です」
 そういってからお付きのものだろうか黒服の小男に持たせていた指輪をまた10個ひとつずつはめ直していた。
 ナターシャは目でスティーブを確認してから、すこしだけ会釈した。気を遣わせた礼のつもりだった。それから徐文武に近付く。
「Mr.徐文武!!」
「あぁ、ナターシャ」
 満面の笑で近寄ってくるのが恐ろしくて後ずさってしまった。ひとつ押すなら、ひとつ引くしかない。
「文武、来ていただくのなら連絡していただきたかったわ」
「申し訳ございません、ナターシャ。昨晩わたしはあなたに失礼な振る舞いをしてしまったことをどうしても詫ておきたかった」
「その話はもう結構です。そうお話したはずです」
 この男の距離の詰め方に背筋が泡立つ。ポッツが言ったとおりだ。油断するべきじゃない。だが主導権はこの男が持っている。
「あなたに許してもらいたい。その詫びの品を受け取っていただきたくて、こんな時間に来させていただきました。どうか受け取ってください」
「……」
 さきほどの小男が茶色い封筒を見せてくれたが、手渡しで受け取るのが怖くて見ているしかなかった。腕組みをして毅然とした態度をとっているように見せながら腹の底で震えてる。そのわずかな間を神が取り持ってくれた。
「これはなんだ?」
「情報です。中国と日本はとても近い。商売をしていると、いろいろな情報がはいってくるものです」薄く目を細めてナターシャを見た。「あなたに近付いたのは、これもあります。連中に好き放題されては仕事に支障がある。あなたのアベンジャーズならきっと有効活用してくれる」
「アベンジャーズはあたしのものじゃない」
 ソーは会話に興味ないようでそれを開けてしまう。スティーブはそれを後ろから見ていた。
「これは……」
「ハンドか?デアデビルやウルヴァリンの宿敵だったか?」
「ソーっ!」
 こちらの情報を漏らすものではない。ナターシャの大声に神は怪訝な表情をしてスティーブがなだめてくれた。
「中国のビジネスマンにはこういう情報が流れてくるものなのですか?Mr.徐文武」
「手広くやっていますとね。さまざまな情報がはいってきます。中国の刀は日本の刀と違って両刃で使いやすい」
「ふむ」
「あたしは日本の刀のほうが好きだわ。デザインがシャープでクールだわ」
「我はハンマーがよい」
「鈍器なんて野暮ったい。マッチョじゃないと似合わないじゃない」
「マッチョってなんだ?」
「ふたりとも黙っていろ。Mr.徐文武、それは答えになっていません。あなたの仕事は投資会社と聞いています。そのような情報がはいってくるものなのでしょうか?」
「中国はアメリカのようにすべての国民に平等な機会が与えられているわけではないんです。持てるものが多くを持つ構造になってしまっています。情けないことに、わたしのところにはさまざまな情報やそれ以外のものがはいってきます。それがずっと普通のことだと思っていました。不平等であることに気付くのに、時間がかかりました。わたしの世話をしてくれた、ふたつうえの使用人が学校に行ってなかったのを不思議に思うこともありませんでした」
 徐文武は後ろをみて微笑む。小男は小さく礼だけしてもうひとつのバックを差し出した。
「これも、あなたに」
 白いビロードのリングケースだった。昨晩あれだけ鳴ったアラームがまた鳴った。危険信号がいままでにない大きさで頭のなかで鳴った。あの箱はブシュロンだ、逃げろ逃げろと鳴っている。
 攻撃の基本を思い出す。先制。
「本当に結構よ文武。昨日のことは本当にもういいんです」
 あけたケースのなかに細いダイヤを挟んだ銀が幾重に絡まってバラのように見えるピヴォワンヌコレクション。反射神経で逃げようとする女を離さない。腕をつかんで指を開かせる。左手の薬指にはめる。顔が近かった。
 背中が泡だって昨日のような震えが蘇ってくる。
「あなたに受け取っていただきたい。他のだれでもない、あなたに」
 いろんなアラームが鳴りすぎてどうにかなってしまった。続きを言わせるなと考えるよりも先に、手がでた。ぱんっと乾いた音がして、部屋の空気が一瞬とまった。徐文武の後ろの小男だけ腰に手をやったが、主人が止めた。
「ナターシャ」
 言わせるな!とアラームが鳴り続けている。
「お返ししますっ!本当にもう、やめてください」
 場を支配しているのは彼女ではなく徐文武だった。
「ナターシャ。どうかわたしを許してほしい」
「その話はもういいんです!こういうこと、本当にもうやめてくださいっ」
「ナターシャ……」
 あきらめの悪い男。ポッツに叱られても、ジャーヴィスに悲しい顔をされても構わなかった。限界だ。こんな茶番に付き合わされるのは御免だ。
「あたしはこの部屋にいる男とも女とも寝てるの。あなたの申し出は受け入れられない」
「お嬢様っ」とワゴンを持ってきたジャーヴィス。
「我とキャプテンは寝てないぞ」とソー。
「黙っててっ」
 ナターシャは嵌められた指輪を外して叩きつけた。
「あなたの厚意に感謝します。でももう辞めてください」
 踵をかえして立ち去ることにした。泣きそうな顔をしてる執事に「会社に行ってくる」とだけ行って部屋から出て行った。あとの雰囲気など知ったことではなかった。
 爆弾を落とすだけ落として勝手に退場する。
ジャーヴィスがまず頭を下げた。
「申し訳ございません。本当に申し訳ありませんでした。お嬢様が大変失礼なことをしました。誠に申し訳ございません」
 スティーブも床に落ちた指輪を拾い上げ手渡した。
「ありがとうございます、キャプテン。エドウィン・ジャーヴィス、あなたも気になさらないで。わたしのやり方がまずかったのでしょう。彼女の苦しみをわたしは完璧には理解できていない。ですがわたしは、彼女に受け入れてもらいたいんです。彼女を助けたい」
 ジャーヴィスは頭を下げた。深く頭をさげて「お願いします」とつぶやいた。

 

 その日、ナターシャ・スタークは仕事を遅くまでこなした。
ポッツにはメールで叱られたが、返事はしなかった。ジャーヴィスからお帰りはいつですか?とメールがきたが返事をしなかった。スティーブからも来たが、返事はしなかった。いい男だと皆が言う。
あの前なら、きっとのぼせ上がるくらいいい男だと思っていたことだろう。
 いい男だとは思ってる。
優しくてスマートだ。金もあるしハンサムだ。
「やめてください」
 目の前にいる。
「ナターシャ。あなたが傷付く必要はない」
「ほんとうに、やめて……」
「わたしを受け入れてください。ナターシャ・スターク」
 彼の指輪が腕に跡を付ける。
会社にまで来るなんて思ってなかった。
「出て行ってください。本当に、もうやめて……」
「わたしを見て。わたしを許して、わたしを受け入れて欲しい」
「やめて……。お願い、やめて……」
 いつか道路でKISSぐらいしてやってもいいと思っていた。どうして、いまはこんなに震えが止まらない。
「あなたの苦しさも、悲しみも、すべてわたしにぶちまけてほしい」
「やめて……」
 そんなふうに言われたら身を任せたくなる。
首をおさえられたら動けなくなる。近付いてくる唇を避けられない。
 頭を上に向けられたら強く結んだ唇にもはいってくる。反らした背中の下に手を伸ばされる。
「やめてっ」
 必死で跳ね飛ばした。深夜の社長室に徐文武は少しだけ後ろづさる。
「かわいいひと」
 文武は女性のなかでも小柄なナターシャを両手で抱きしめる。
「お願いです、やめてください……」
「あなたは美しい、あなたはとても魅力的な女性だ。そんなに苦しむ必要はない……。最初のときでわかっているはず。あなたはわたしを受け入れられるはずです」
 それがわかっているからこそ、アルマーニのスーツに涙の染みがついていた。このままここにいたいと思ってしまっていた。

 

 その日の夜遅くにナターシャは帰ってきた。
ジャーヴィスは部屋で待機していたが騒ぎもないまま朝になった。寝不足のまま朝食の準備を整える。
「おはよう、ジャーヴィス」
「おはようございます。お嬢様」
 ナターシャの衣装はかっちりとしたビジネススーツ。白いシャツの襟の先がピンととんがっていた。
「珍しいお衣装で」
 いつもの彼女ならもうすこしカジュアルで華やかなスーツを選ぶ。まるで裁判所にいくような色だった。
「コーヒーだけでいいわ」
「昨日なにかお食べになりましたか?」
「平気よ」
 それは朝からなにも口にしていないことを意味している。摂食障害をおこすようになってから過食と絶食を繰り返している。
「スープをご用意していますよ」
「いらない」
「ですが」
「行ってくる。帰るまで花を処理しておいて。いいわね」
「お嬢様」
 返事をしないで出て行った。
いままで見たこともないくらい冷徹で情のない瞳をしていたことに執事は心痛めた。昨日の今日で、あんな表情をみせるお嬢様のことが心配でたまらなくなり、ポッツに連絡を入れた。
「今日は遅くなるっていまメールがきたわ」
「もう出て行かれましたが、どこへ行ったかご存知ありませんか?」
「ゴメンなさい。わからない」
「そうですか……」
 ポッツはメールを確認していた。
「徐文武からメールが来た」
「わたくしにも来ました」
「彼、いいひとね。きっと、あの子を幸せにしてくれると思う」
「わたくしもそう思います」
 電話をきってからアベンジャーズの仕事だろうかと、スティーブにも電話した。彼も居場所を知らないと言った。
「昨日の彼からメールがあった」
「ロジャースさまのところにも」
「彼はきっと彼女を救ってくれるんだと思う」
「わたくしもそう思います」
「彼は彼女の苦しさを理解できる人間なのだと思う。彼女は昔のことを悔やんでいる。彼もそのようだ。きっと分かり合える」
「お嬢様が踏み出せば、きっと幸せになれるはずです」
「そうだな。なにか聞いたらすぐに連絡しよう」
 礼をいって電話をきった。
 昔なら遊び仲間をあと数人かければ所在がわかったものだが、いまの彼女にそこまでの友人はいない。あんな表情でだれに会いにいくのかまったく予想がつかない。このとき、彼女が行っていたところは本当に予想できないところだった。なんどもメールをしたし、電話もしたがつながらないまま時間がすぎた。

 

 スティーブがその電話を受けたのは老人ホームだ。正面のペギーが薄い味のお茶をいれた。
「だれから?」
「スターク家の執事からだ。キミは知ってるだろうか?」
「言わないで。思い出すから。けっこう変わった名前だった。どこだったかしら……」
「あれはドイツ系かな」
「だから言わないで。ユルゲンス?ヒュッター……。違う、違うわ」
「J……」
「だから言わないで。J、J……。ジェンキンス?ジェナー」
「もっと珍しい」
「ジャーヴィス!エドウィン・ジャーヴィスだわ」
 昔のことを思い出すのは、いい頭の運動。ペギーもスティーブも満足していた。
「当たりだ。知ってるんだな」
「ハワードのころからいた執事だわ。まだ務めているのね。彼も結構な年齢じゃないの?」
「若くはないな」
 禿げ上がった頭の細い体躯。気の強そうな壮年のエドウィン・ジャーヴィスはナターシャの守護騎士のように彼女の傍らに備えている。執事というより心配症の父親のように仕えている。
「ハワードのころから彼はいたのか」
「ハワードのお葬式で見たわ。そのころは息子のトニーが会社を継いでいた。葬儀にはたくさんの弔問客がいたわ。覚えてる。孫娘がいたのよ。あの、ナターシャ・スターク。もう学校にじゅうぶん上がってる年齢なのに、たくさんの弔問客の前でわんわん泣いていたわ。父親がなだめても全然聞く耳もたない感じ。棺にしがみついて泣いてた。ずいぶんと甘やかして育てているものだと思ったわ。そうよ、あの娘。あの娘がナターシャ・スタークだったわ」
 式や公共の場所では大人と同じ振る舞いをするように躾けられていなかったことに驚いたこともペギーは思い出した。
「あまり親交をとっていなかったのか」
「ハワードが生きてるころには、よく一緒に食事をしたわ。北極海にも行った」
「それはどうも」
 ずっと探していてくれたことをスティーブは素直に嬉しく感じる。
「でも……。そうよ、ハワードが死んで、あんまりにもあの娘がわんわん泣いていたものだから、シャロンと一緒に顔を見せに行ったことがあるわ。カードを持ってね。シャロンとたしか、同い年よ、あの娘。だから連れて行ったら少しは気が紛れるんじゃないかって。でも……」
 ひとつのことを思い出すと、それは毛糸のマフラーをほどくようにするすると出てくる。
「お酒の匂いがしたのよ。まだ10にも満たない年齢で、ひどいアルコール臭。ウィスキーだったわ。呂律が回っていなくて、きっとあたしのこともシャロンのことも覚えていないわ。トニーが怒鳴っていた。可哀想だとは思ったけどシャロンに見せるべきじゃないと思って、それから訪ねることを辞めたのよ。最後に会ったのはトニーの葬式だったわ。そのときはさすがに泣き叫ぶような年齢でもなかったけど、そうね、やっぱりお酒の匂いはしたわ。父親の葬儀を卒なくこなすための景気付けだったかもしれないけど、そうは思えなかった」
 スティーブも聞いていた。
「ハワードが死んでから飲み始めて、父親が死んでからは朝から呑むような生活をしていたらしい」
「会社を継ぐと聞いたとき、申し訳ないけど株も全部売り払ったわ。もつわけがないと思ったのよ。あんな苦労知らずでアル中のお嬢様に会社経営なんて無理だと思ったの。でも間違いだったみたいね。父親がやってるときより業績が上がったのよ」
「武器製造に舵を切り直したからだろう」
 父親のトニーはレース中の事故死だと書類で読んだ。彼が乗っている車は新しいエネルギーで走っていたのだ。スタークインダストリアルは武器産業から撤退しエネルギー産業に舵をとろうとしていた。娘は、この時点では、父親の覚悟を引き継いではいなかった。
「ずいぶんと怒ってるものもいたわ。ハワードやトニーの遺志もわかってないってね。あなたの願いを踏みにじる行為だってカンカンなエージェントもいた。アメリカは豊かになったけど地球は武器であふれるようになってしまった。もちろん彼女だけのせいじゃないけどね」
「だれも話してやらなかったんだろうか」
「トニーとうまくいっていないっていうのはハワードから聞いたわ。ハワードが亡くなる前に仲直りすればよかったんだけど、うまくいかなかったのね」
 娘と会話もしないまま父親は逝ってしまった。
「うまく話していれば良かったのだろうな」
「父親との仲違いの代償としては大きすぎるわよね。よくやってると思うわ。耐えられることじゃない」
 アフガニスタンでなにが起こったのか新聞だけでも充分に伝わる。アフガニスタンの武闘派集団は無慈悲だ。生きて帰ってこられたことが奇跡のようなものだ。
「つらかったろうね」
「ホントにね。よくあんな目になっても、表舞台に立てるものだわ。ああいう人前に出ても物怖じしないところはハワードに似たのね」
 スティーブもよく知る気位高い青い瞳を思い出していた。市場を支配するエネルギー産業にのりだした工学者でもありビジネスマンでもあるナターシャ・スターク。
 そしてアイアンマン。
美しいが儚い。強いが脆い。不安定な女。酒臭い大富豪。
「わたしは昔の彼女をのことを知らないので、なんとも言えないが。彼女には感謝している」
「S.H.I.E.L.Dもね。トニーが亡くなってからS.H.I.E.L.Dの援助は打ち切ってたはずよ」
「それで、なのか?」
 スティーブの短い質問にペギーは首をふった。
「微妙なとこね。それもあるかも知れないし、もっと悪いことも考えられる」
 美しい金色の眉のあいだに深いシワが刻まれた。
「そんなことが、あるんだろうか?」
「ニックは目的のためには手段を選ばない男よ。そして彼の目的は地球平和」
 悪い想像ならいくらでもできる。
「考えたくない」
「あなたも現代的な考え方に慣れてきたみたいじゃない」
「皮肉は辞めてくれ」
「そんなつもりはないわ。現代的なものの考え方ってこういうことじゃない?」
 どこまで手を汚せるか。おそらくニック・ヒューリーの手は血で膝まで濡れている。その手はあまり彼女に優しくない。嫌っているのはわかっていた。ナターシャもニックを嫌っている。
 歯を食いしばって過去を償おうとしている女性と地球の平和をひとりで守っているような顔をしている隻眼の男。ふたりは穏やかな表情で話さない。
「わたしは彼女に救ってもらった」
 ペギーは優しく微笑んだ。
「あなたマザコンだものね」
 眉間のシワが深くなった。2重に3重にも意味がわからくて痴呆症が再開したのかと思ったぐらいだ。
「そんな顔をしないでよ。あなたのお母さんの話しを思い出したの」
「母の話?」
 ペギーの微笑みはさらに深くなった。
「ちょうどいいわ。あたしの画じゃなくて、彼女の画でも描けば?素材ならネットでいくらでもあるでしょ」
 内容よりも最初の言葉が気にかかった。
「なぜ、キミの画を描いていると知ってるんだ?シャロンには見せていないはずだ」
「聞かなくてもわかるわよ。あなたは現代で生きるのよ。もうこんなお婆ちゃんに構ってる場合じゃない」
「そんなお婆ちゃんが、わたしの最愛の女性なんだ」
「口説いても無駄よ。不倫をするには年齢をとりすぎたわ」
 ペギーは家族の写真を指差した。
 ズルいものだとスティーブも笑った。
「キミと結婚したかった」
「あたしもよ。でも待たせすぎだわ」
 60年は気が遠くなるほどだった。
「あなたと出会わなければ良かったと思ったことすらあるのよ。キャプテンアメリカの恋人だったとはいえ、いまはただの女性士官。そんなふうに言われたことは一度や二度じゃない。60年前は働く女性に優しくなかった。あなたの名前は助けにもなったし、邪魔でもあった」
「申し訳ない」
「思ってもないことを言わないで」
 互いに笑みがもれた。
「眠っているあいだの時間は、そう簡単に単純化できるものではない。一言で語れる歴史なんてない。わかっている」
「あたしが生きている60年はいいこともあったし、嫌なこともあったわ。いろんなことがあった。あなたを思い出さない日はなかった。あなたがいてくれたらって思ったりもしたし、あなたがいなくて良かったと思ったこともある。正しいことも、間違ったこともしながら、あたしたちは生きてきた」
「べつに否定しているつもりはない」
「でもきっと若い子はあなたの復活になにか意味を見出してる。そしてそれを利用しようとする連中もいる」
 どうしても浮かび上がるのは隻眼の長官だった。彼が悪い人間だとは思ってない。だが彼の正義はとても独善的で、結果だけ求めるようなものだった。のちの齟齬など誤魔化してしまえばいいと考えている。
 スティーブには理解できない。
こんなにインターネットが普及しているというのに、大きな機関だけに情報を一極化できるわけがない。そしてペギーは昔ながらのスパイだった。
 現地で戦闘行為をしてきたこともあるし、新聞の小さな記事からソ連の動きを推測できる程度には情報の収拾と精査には自信があった。昔から新聞はスパイの必需品。
 ベッドサイドから小さな記事の切り抜きを取り出した。
 薬品会社が特定運送会社の取引中止を告げる記事。ホームセンターを襲った武装集団。賄賂を受け取っていた麻薬取締官が取調室で自殺した記事。議員の起訴取り消し。そして放火。
 ひとつひとつはありがちな新聞記事。ありふれすぎていて、目を通すこともないような記事だ。だが、そのなかで真実を見抜くことがペギーにはできる。インターネットは古い知恵を凌駕できない。
「あなたからレッドスカルのことを聞いてから、少し気をつけて見るようにしてみたのよ」
「このなかにレッドスカルの関わった事件があるのか?」
「全部よ」
 ペギーは事も無げに言ってくれる。

 

 レッドフックの家に帰ってきたときには夜だった。ペギーとの会話は楽しくもあるが切なくもある。彼女の毅然とした美しさと、洞察力の鋭さに惚れ惚れする。現代で道を失っている自分に灯りをともしてくれる。
 それは昔から変わらない灯りだった。
アースキン博士から聞いていたよりずっと身体の変調があると気付いた頃からの灯りだ。睡眠時間が短くなったとか、爪がよく伸びるとか、汗をかきやすくなったのでオーデオコロンを使ったほうがいいのか頭を悩ましていたころからの灯り。
 家に帰ったら彼女がいた。
一緒に食事をして会話をした。SEXもした。
 そのあと眠っている女性をベッドに残しカンバスの前に座る。60年ぶりに目覚めてから描くものは限られていた。
 街のスケッチや、公園で遊んでいる子供。風景はいつだって、そのときどきを切り取って保存するのに絵画ほど素晴らしいものはない。人物画はモデルが限られていた。バッキー・バーンズ。失われた相棒。そしてペギー・カーター。結婚まで考えた最高の女性。
 じつはペギーには黙っていたが、件の人物を書き始めていた。
 筆をとって、それを最後まで仕上げるつもりだった。随分前から彼が取り組んでいた大作は丁寧にきりとった想いを塗りこめている。ペギーのいうとおり、画を描いている最中はその対象について考えている。
 自分のことを考え、対象のことを考え、それにまつわるさまざまな事由について関係性をリスト化してつなげていく。相対化して考えをすすめていく。
 なるたけ独りよがりにならないよう、冷静に物事を考えることにしている。自分を見つめることは画を描くこと。だがどんなに集中していても、起きだしたエージェントの気配は筒抜けだった。
 カンバスに布をかけた。
「見せてくれないのね」
「……」
 返事をしたくなかった。ペギーにも言わなかったことを彼女に言えるわけもなかった。
「あなたはあたしにも全てを語ってくれない」
「……」
 抱えているものを他人に披露する趣味もなかった。
「あたしはあなたのなに?」
「……」
 スティーブは布をかけたカンバスの前で考えた。恋人のはずだ。恋人といっても、差し障りない。一緒に食事をとるし、SEXもする。意味のない会話もする。彼女を愛している、と思う。愛しているのではないだろうか。たぶん、いや。違うだろう。
 最愛の女性はいまでも昔と変わらない。
ペギー・カーター。
どんなに老けたとしても他の男性のともに家庭を作ったとしても、いまでも愛してると言える。フラレても愛してる。90の婆さんは難攻不落。
 あしげく通ってもお茶を飲んで世間話と昔話をして微笑むだけだ。それだけで充分な気もするし、寂しく思うこともある。
「別れましょう」
「そうだな」
 この言葉だけは自然にでるものだと感心した。おそらく彼女もそう思っただろう。
 出て行った彼女の背中を見ることもしなかった。追いかけることもしなかった。布をひいて画の続きにとりかかる。どうしても仕上げたかった。
「……」
 心のなかで名前を呼んだ。
 例の中国人と幸せになってほしいと心から祈った。
 自分を救ってくれた女性が、優しい男に救われることを願って筆をすべらしていた。
 例の中国人。
 投資会社マンダリンの創業者。彼ならスタークを幸せにしてくれるだろうと思った。

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