
Chapter 1
X-menと共闘するべきだ、とソーが言った。
「ミュータントの問題を無視しすぎだ。これがアベンジャーズとX-menの確執になる前に手を打つべきだ」
S.H.I.E.L.Dとの関係を戻そう、とキャプテンアメリカが言った。
「ニックはいろいろと問題がある。だが世界的な諜報機関と共有できないのは、こちらにも不利益になる。無視しすぎだ。そろそろ手を打つべきだ」
新しくなったアベンジャーズマンションの会議室で議題にあがったことは、ふたつとも重要な事案でふたつとも優先順位が高かった。集まったアベンジャーたちは口々に自分の意見をいった。Drストレンジ率いるディフェンダーズや、ファンタスティックフォー、スパイダーマン、デアデビルをはじめとするストリート系のヒーローたちとの共闘は多くなった。ワカンダからの支援は有難い。
ネイモアも渋々ながらも深海の情報と技術を提供する。「海面温度実況データが欲しい」と言うナターシャに「意味が分からん」とつっ返し「つかえねぇ海パンだな」と言われたのでブン殴ってやったが、深海王国とアベンジャーズのの関係は概ね友好的だ。
ヒーローたちは団結することが大事だとわかっていた。
ヴィランたちが利益でつながっているのなら、ヒーローたちも自分たちのためにも共闘せねばならない。
目標もゴールもわかっているが、そのための手順がわからない状態だった。
ミュータントでもありアベンジャーズでもあるワンダは少し困ったような顔をしながらナターシャに聞いた。
「どうしたらいいと思う?」
アーマーのなかでナターシャは頭を抱えていた。全員が自分を見てるのをわかって呟いた。
「ポッツに恋人ができた……」
なんて言えばいいのかわからない、と呻く彼女を全員で見ていた。
そのあとヴィランがあらわれて、倒して、なんとなく解散になった。
スティーブ・ロジャースはイライラしていた。いまが大事なことぐらいわかっているはずだった。トニ・ホーの転居は滞りなく終わり、彼女がピーター・パーカーと同窓になったのは新しい時代の幕開けのように感じていた。
X-menのこともS.H.I.E.L.Dのことも、アベンジャーズとして解決しなければならない課題だ。次の世代のヒーローに明るさを見せなければならない。その責務がいまアベンジャーズを率いるキャプテンアメリカ、雷神ソー、アイアンマンにはある。わかってないはずがない。
アスガルドの養生から帰ってきてから順調に回復していると判断したからこそアベンジャーズの活動にも参加してもらっている。だが、さっきの会議での態度は許されない。ふざけていい場ではない。解決しなければならない問題が山積してるのだ。
イライラしながらアベンジャーズマンションの最上階のスターク邸にはいった。システムのジャーヴィスは確認もせずに開けてくれる。
どすどすと足音をならせてリビングにはいって、やっと先客がいたことに気付いた。赤い色目眼鏡をつけたスーツの男は少し笑っているようだった。自分の方に顔を向けて
「はじめまして」
と言う。その声にどこか聞き覚えがあったがイライラしていたので気付けなかった。手をのばして、とりあえず握手した。
「申し訳ない。客人がいたことに気付いてなかった。はじめまして。わたしはスティーブ・ロジャース」
眼鏡の向こうで男の表情がどうなっているのかわかりにくかったが相変わらず笑っているようにも見えた。
「あなたがスティーブ・ロジャース。すごい、キャプテンアメリカだ」
声に聞き覚えがあると思ったが、横から彼女が冷えたワイングラスを差し出した。
「キャプテン。彼はマシュー・マードック、弁護士よ。新聞で読んだことない?ヘルズキッチンの盲目の弁護士」
「あぁ、あなたが」
新聞で読んだ覚えがあった。幼いころの交通事故で視力を失った青年が弁護士になって故郷で事務所を立ち上げた話だ。少々感傷的だとは思ったが本人を目の前にするとやはり素晴らしい美談だと思い知らされる。
「彼があった交通事故はうちの会社のトラックだったの。パパは危険物質の輸送に同行してたのよ。当時の最先端治療を施したけど、彼の視力は戻らなかった。パパが責任感じて、ずっと援助してたの」
「その甲斐なく、トニー・スタークを訴える娘の弁護をしたのだけどね」
「パパの情に甘いところを利用させてもらったの。あなたがあたしの弁護をしてくれたら、すぐ取り下げると思ったのよ」
スティーブの知らない話だった。ナターシャが自分の親権放棄のためにトニー・スタークを訴えていたことなどジャーヴィスは話してくれなかった。
「ま、マードック弁護士はそんなわけであたしとも付き合いが古いのよ。専門は刑事事件で、ストリート系のヒーローの弁護もよくしてくれてる。有能よ。大企業でも大金持ちでも間違ってるとなったら弁護をひきうけてくれる。怖いもの知らずなのよね。いろんなところから目をつけられてる」
「それで身体を鍛えているのですか?」
スティーブがそう聞いたときも盲目の弁護士は笑っているように見えた。彼の身体についた筋肉はスーツでも隠しきれていなかったし、傍の白杖にも仕掛けが施されている。表情は読めないが身体つきや、立ち姿でただの弁護士でないのはわかる。マシュー・マードックは穏やかな声で「幼い頃から勉強の気分転換に筋トレをしていただけですよ」と言った。
筋肉がついているだけではない。目は見えないながらも周囲への気の払い方が常人ではないとスティーブにはわかったが、長居してまで聞くほどのことでもない。
「邪魔をして申し訳なかった。急ぎの用事でもないので、わたしは退散しよう」
「それは困ります」とマット。
彼は書類をさしだした。「あなたのサインが必要です。ナターシャ・スタークの信託財産の受託者として」
「なんの話ですか?」
「そのままの話です。ナターシャ・スタークが死んでも、その資産をアベンジャーズが運用できるよう信託財産を作ります。その受託者として、あなたのサインが必要です。エドウィン・ジャーヴィスとリード・リチャーズ、ジェイムズ・ローディからはいただきました。あとはあなたです。4人のうち2人のサインで運用できます。わたしはその管財人となります」
ペンを渡される。
となりでナターシャはワインを飲んでいた。
「言いたいことがいろいろあるのはわかってる。でも彼は忙しいひとだから、手間をとらせないで。サインして。超人血清をうったあなたは長生きするだろうけど、あたしは、そうじゃない。自分が死んだあとのことも考えなきゃいけない。あたしの財産を、全部あなたにあげる。あとで話すけど、急がなきゃいけなくなったの」
「わけがわからないままサインなどできるか」
頑固爺めと苦々しい表情をするナターシャを尻目にマットは穏やかな声でいった。
「彼女はスターク家の一人娘で、スタークのすべての財産をひとりで持っています。ただ別の相続人があらわれたら、下手したら彼女の財産は半分になる。それ以下かもしれない。そうなるとアベンジャーズの活動は危うくなる。そのために財産をべつの口座にうつして、あなたたちのために活用して欲しいというわけですよ。いきなりで戸惑うのもわかりますが、おかしな話じゃない。弁護士として保証します。あなたに不利益な話じゃない」
「あたしのことは信じなくてもいいけど、彼のことは信じていいわよ。マシュー・マードックはウソをつく人間じゃない。別のスタークが現れたら、いまのような活動が続けられる確証はない」
「別のスターク?」
「あとで話すって言ってるでしょ」
マットはずっと冷静だった。
「トニー・スタークが生きている可能性がでてきました。今はなんの確証も持てません。あなたたちはスクラルとかいう人間そっくりに擬態できる宇宙人と戦ってきたんでしょう?いまの情報では本当になにもわからないんです。ただ対策は打たないといけない。トニー・スタークに化けたスクラルが華々しく復活してスターク社をのっとったあとヒドラが出てきて、アベンジャーズが出動できますか?」
信託財産受託者リストにポッツの名前がなかったことと、さっきの「ポッツに恋人ができた」という話がやっとつながった。彼女は彼女でアベンジャーズのことを真面目に考えているのがわかった。そうなると渋々ながらもサインするしかなかった。書類に目を通さずにサインするのは生まれて初めてだった。むしゃくしゃする。マットの声は終始穏やかだった。
「手続きをはじめます。進展あれば連絡します」
「ありがとう。お願いね」
スティーブはもういちどマットと握手した。
さっきの握手より硬くしたが、それでもマットの顔色はひとつも変わらない。そうとう鍛えこんで、あと痛みに慣れているのがわかった。ふいにひとつの仮説が思い浮かんだが、それはあまりに現実味がないように思えた。確認するのも憚られたので、彼が去っていくまで黙っていた。ビルから去っていくのを確認してから
「デアデビルか?」
と聞いたが、ナターシャは、なにを言ってるの?という顔のままワインを飲んでいた。
ギャングや暗殺者やニンジャと戦っている男が盲目だとは信じがたい。たぶん自分の勘違いだろうと、本題に向きなおした。
「さ、話してもらおうか」
「えぇ話すわ。でもあたしから話すとは言ってない。いまからペギー・カーターのところに行って。彼女から聞いて。この信託財産も彼女のアイデアなの。今すぐ彼女のところに行って。彼女があなたを待ってる」
意外な名前がでてきて、昔馴染みの苛立ちが帰ってくる前に、いろいろなことが腑に落ちた。目の前の大富豪が自分以上に、アベンジャーズという団体のことを考えてないわけなかった。彼女はアスガルドから帰ってきてからずっとさまざまなことを考えてきていたのだろう。
「ジャーヴィスは大丈夫か?」
リビングに執事がいないことは気付いていた。彼女は肩をすくめる。
「パパが生きてるかもしれないなんて言うんじゃなかった。泣かせちゃった」
「キミが彼をだましとおせるわけがない。言ってよかったんだ。きっとなにか理由がある。スクラルかもしれないしな」
「どっから手をつけていいのかわからない。相談したい。でもアベンジャーズのメンツにはS.H.I.E.L.Dの工作員もいる。彼女を前にして話せない。ことが起こる前に把握したいことはいくらでもある。ペギー・カーターのところに行って。あたしからじゃなく、彼女から聞いて」
「じゃあキミはジャーヴィスのそばにいてやるんだな」
言われなくてもそうする、さっさと行け、と目が言ってる。泣いているジャーヴィスは彼女にとって、いちばん対峙したくない難敵だろう。そして彼女にしか退治できない敵でもある。屋敷がでるとき老いた執事の泣き声が背中にささった。
ペギー・カーターのいるラークムーアクリニックについたのは日が暮れ始めていた。
部屋はがらんとしていて、粗末なベッドにかつて愛した女性が座っていた。テラスから見えるながめを目に焼き付けようとしているのだとわかった。彼女はバージニア州の風景を気に入っていた。生まれ故郷のパリの次に気に入っていた。横に座って
「寒くないかい?」
と聞いた。
彼女が「寒い」と言ったので窓をしめた。家財道具をすべて運送したのだろう。いつもミニテーブルの上にあったウェッジウッドのカップはなく、粗末なマグカップしかなかった。
「パリに?」
と聞くと、彼女は「えぇ」と答えた。
「死ぬときは故郷に帰りたくなるの。あなたも覚えておいたほうがいい」
「キミの言葉を忘れたことなんて、ひとつもない」
「あなたに謝らなくっちゃね。前のときには、これが最後って言ったのに」
もういちど横に座って肩を抱いた。
「あれが最後だなんて思ってなかった」
「見通しが甘いわね」
白髪の頭を肩にのせてペギーはくすくす笑った。彼女の無邪気な笑い方が好きだった。
1944年の終わりぎわ、彼女はゲシュタポに捕らわれ陰惨な拷問をうけた。キャプテンアメリカと懇意だということで目をつけられたのだ。彼女はどんな拷問にも耐え抜いたが救出したときは気が狂ったようにけたましく笑っていた姿をスティーブは覚えている。彼女がこの人生のひどい時期をすっかり忘れてしまったのは、たまたまのことなのかヨハン・フェンホフ博士の功績なのか、当時肩を並べて戦っていた同盟国ロシアの夜の魔女の温情なのかスティーブにはわからない。
当時SSRと呼ばれていたS.H.I.E.L.Dの前身組織の大佐チェスター・フィリップスか後任のニック・ヒューリーでもなければ、わからないだろう。チェスター・フィリップスは死んでしまったし、ニックが真実を口にするわけがない。北極海で眠っているあいだに、いろんなことがあったのだろうし、そのことを逐一聞いてまわるのは気が引けた。語ってくれるまで寄り添うしかない。
ペギー・カーターはゆっくりと語りだした。
「あなたが北極海で行方不明になって、すぐ帰ってくると思っていた。SSRやハワードがすぐあなたを見つけてくれると思ってた。でも1年経って2年経って思ったの。あなたが帰ってきたとき、いま世界でなにが起こってるのか、その結果どうなっていくのか、それを伝えなくちゃいけない。SSRがS.H.I.E.L.Dになったときの雰囲気、そのときの政治、人事。世界情勢、経済、新聞の論調、知っておかなくちゃ判断できないことがある。目覚めたあなたに、どうしてこんなことになったんだ?って聞かれたとき、ちゃんと答えられるように書いておかないといけないって思ったの。ノートに事細かに書いていったわ、1冊書いて2冊書いて3冊4冊、いつ目覚めるんだって思ったわ」
「悪かった」
60年も眠ることになるとは思ってなかった。
「いろんなことがあった。全部ノートに書いた。あたしが死んだあと、ノートはしかるべき機関で保管して目覚めたあなたに手渡すように弁護士を手配した。S.H.I.E.L.Dを退職することになって、この仕事をシャロンに譲ろうかと思ったけど、彼女はちょっと感傷的なところがあるから言えなかった。できる範囲、自分で書くと決めた。あなたが目覚めたって聞いたとき、大仕事がやっと終わったんだって思った。これを渡せば、わたしの人生にはなんの悔いもない。本当に肩の荷が下りた気持ちだった」
ペギーの肩を抱き寄せた。
この世でだれよりも愛している女性が、自分のためにしてくれていたことが嬉しかった。自分が眠っているあいだにも、自分を想ってくれていた事実だけで報われたような気持ちになっていた。
「なら、どうして」
渡してくれなかったのか。ペギーは顔を伏せた。
「ホントにいろんなことがあったから。あなたが会いに来てくれたとき、渡すべきだって思った。このために書いてきたんだから渡さなくっちゃって。でも、あなたがあのノートのあのページを読んだら、どう思うのか考えたら怖くなって渡せなかった。きっとあなたは頭に血が上って、ひとりで行ってしまう。この国には、この世界にはあなたが必要なのに。きっとあなたはひとりで行動してしまう。だから渡せなかった。あなたと一緒に戦ってくれるひとに渡さないといけないって思った。前に来てくれたでしょ、あのときのファルコンっていう黒人の若い青年に渡そうと思ったの。でも用事がなかったら、こんなお婆ちゃんのところに来てくれないわよね」
呼び出そうとも思ったが、ラークムーアクリニックにはヒドラの精神科医と思われる男が出入りしている。
「ナターシャには用事があった」
「彼女、用心深いわね。シャロンの顔で来たわ。よくわからないけど、顔を変えるジェルみたいのを付けて来た。ハワードの才能を受け継いでるのね」
「そんないいものじゃない。会社に気取られないまま男漁りしたいだけだ」
ペギーはくすくす笑って、ホントにハワードに似てるともう一度言った。
「ノートにも書いたけど、ハワードとニックは2人だけでなにかしてた。外的要因の排除とかいう名目でね。ニックはインフィニティフォーミュラっていう血清でずっと若いままだけど、ハワードが作ったという話よ。でもそれじゃあなぜハワードは自分に打たなかったの?あたしにも。ニックは本当にあたしたちが知ってる2次大戦のころからの兵士なの?」
疑いだすときりがない。
「ニックが大昔からスクラルだったと仮定すると、厄介なことだな」
「スクラルはリード・リチャーズの登場で脅威はないと思う。彼の発明で探知できるようになった。ニックがリードを生かしておいてるのが、スクラルではない証拠だと思う。あたしはそれより、ハワードの秘密兵器を息子のトニーではなく、ニックが引き継いでるのが解せないのよ。それはもうずっとそうだった。ハワードはなにか隠し事をしてた。たぶん息子にもなにも話してない。トニー・スタークの代になってスターク社はS.H.I.E.L.Dへの援助を大幅に打ち切った。ニックは激怒してた。世の中をわかってない若造だって言ってた。そのあとトニー・スタークはヨーロッパで事故でなくなって、援助打ち切りのまま会社を引き継いだナターシャ・スタークはテロリストに拉致され自力で逃げ出した。S.H.I.E.L.Dが全部に関係してないって思えない。ただの考えすぎなのかもしれないけどね。あなたのことも」
「どういう意味だ?」
ペギーは細い腕をスティーブの腰にまわした。昔のように抱きしめた。
「あなたを見つけたのはアベンジャーズだった。ずっと探してたS.H.I.E.L.Dじゃない。エスキモーが崇拝していた氷漬けのあなたをネイモアが投げつけた?エスキモーたちが見つける前、あなたはどこにいたの?」
「……」
スティーブにわかるはずもない。ただ彼女が仮定していることは推測できる。ただそれはあまりに現実味がないように思えた。だが最初から現実味のない話だ。
「S.H.I.E.L.Dはわたしをとっくに見つけていた?」
「さすがにヘリキャリアで保管はできないから北極で保管してたんじゃないかしら。あなたがずっと眠っていて欲しいのはヒドラだけじゃない。自分たちで世界を作ってると信じてる連中は、理想をかかげて市民に声をかけるあなたがなにより邪魔よ。あなたは目覚めたら、必ず戦う。弱いものの立場に立って、強いものに立ち向かう。それが政府であろうと資本家であろうと、法律であろうとね。あなたは立ち上がる。自分たちに権利があると声をあげる市民を苦々しく思うのはヒドラじゃない」
60年は長い。
スティーブには須臾の夢でも、ニックにもハワードにも長い歩みだった。ペギーにとってもそうだ。
「外的要因とは、わたしのことか……」
「わからない。ニックもノートをつけてる。それを読むことができたら、きっとわかる。あたしだって当時のニック・ヒューリーを覚えてる。悪い人間じゃなかった。覚えてる。ハワードだってそうよ。でも彼はあるタイミングであなたを探すことをやめてしまった。諦めたの?ってあたしは何度も聞いた。彼は答えなかった。アマンダがシャロンを妊娠したころよ。つまり、ナターシャが生まれる直前のこと」
モナコの后妃が交通事故でなくなった頃だ。
「わたしを、キャップアメリカを探索するのをやめて、ナターシャを製作することにした?なんのために?」
「この話は彼女にしたわ。彼女は自分に超人血清が投与されてる可能性を考えた。次会ったとき違ったとは言ってた。あたしもそれは違うと思う。あなたがいなくなったあとでも超人血清の再生は可能だった。似たようなものも作られた。でもそれがあなたみたいに完璧に作用しないのは、血清を安定化させる特別な放射線がわからないから。それを知ってたのはアースキン博士だけ。ハワードがそれを見つけたとしても、わざわざ遺伝子操作した赤ん坊に投与する意味がない。自分や、それこそトニーにすればいい。会社を息子に継がせたあとで、オバディア・スタンから敵対的買収を仕掛けられた時期よ。彼、アルコール依存症になってた。父親に急に会社を押し付けられて、そのタイミングを見計らって、いろんな会社から横やりいられてて可哀相だったわ。スタークインダストリアルのCEOなんて20歳の若造にさせる仕事じゃない。S.H.I.E.L.Dへの援助を打ち切るのも当然よ」
まだヴァージニア・ポッツに会う前のことだ。彼にとっても受難の時代だった。次の年に赤ん坊のナターシャを押し付けられるのだ。親子関係がぎくしゃくするのも当然だ。
「ニックなら、それを知っている」
「ニックもハワードも意味のないことをするタイプじゃない。きっとなにか理由があってのことだと思う」
「ハワードはなにか残してないのか?」
ペギーやニックのようにノートを残していないのかと期待したが、ジャーヴィスの話を思い出した。
「トニー・スタークが燃やしてしまった。ナターシャを守るためだとは思うけど、ハワードがなにを考えて、なにをしようとしているのかはわからない。どこか別のところに保管してるのかも知れないけど、あの頃はすっかり疎遠になっちゃって、あたしは受け取ってない。見つけるとしたらニックだわ」
「トニー・スタークか」
今後のことでキーマンになるのはおそらく彼だ。スティーブは会ったことがないが、ポッツやジャーヴィスから聞く彼は思慮深い善良な人間のように思える。ナターシャよりヒーローに向いてるようだ。生きているということが、どう転ぶのか想像もつかない。
「彼はたぶんなにも知らないまま会社を継いで、厄介事に巻き込まれたんだと思う。S.H.I.E.L.Dの援助を切ったのは驚いたけど、逆にいえばハワードとニックは一枚岩じゃなかったってことだと思う。結託してたのなら、そんなことさせない。ニックに恨まれるのはわかりきってる。ハワードが一人息子を危険な目にあわせると思えない。S.H.I.E.L.Dと懇意で居続けることより、距離をとらせることのほうが安全だと判断したナニかがあるのよ」
その判断を後押ししたナニかが、北極海で眠らせたままにしておいたキャプテンアメリカにあるのかもしれない。
スティーブには正直、途方もない話で予想もつかなかった。ペギーはくすくす笑う。
「難しい顔をしてるわ」
最後なのよと、ぼやけた青い瞳が言ってる。スティーブも微笑んで肩を抱きしめた。白くなったブロンドの髪のつむじを見て唐突に思った。
ペギーは夫も息子ハリソンも、その妻アマンダも亡くしている。いままでその話は聞かないようにしていた。彼女が幸せな家庭を築いたことを、どんな顔で聞けばいいのかわからなかったからだ。
だがいま唐突に、彼女がどんなふうに暮らしてきたのか聞きたくなった。それに関われなかったとしても、愛した女性が幸せに暮らしたことを知っておきたくなった。愛した女性が幸せだったことを自分が覚えておくことで、彼女の人生が続くような気がしたのだ。
聞きたいと言うと、彼女は穏やかな表情のまま「いいわよ」と応えてくれた。
さまざまなことを話してくれた。きっとノートに書いてこなかった日常のたくさんの1ページ。手元においておきたいと言った小さなアルバムには、彼女の家族の写真がはりつけてある。笑顔にあふれていた。
ペギー・カーターは幸せだった。
それがどれだけ自分の慰めになるのか、今やっとわかった。リード・リチャーズにタイムマシンでも作ってもらって過去に戻って、彼女とやり直したいと思ったことがある。だが、そんなことしなくてよかったのだ。彼女は幸せだった。彼女は彼女を愛してくれるひとたちとともに日々を暮らしていた。ペギーは悲しい恋のあとに、幸せをつかんだ。自分自身の手で、それをつかんで大事に育んでいた。
堰を切ったように話し出す愛しいひとを見ているだけで、自分の心が癒されていくのを実感していた。
どれだけ話し込んでいただろう。ふいに思いついたことを聞いてみた。
「ニックの目標はなんだと思う?」
ペギーは少し笑ってから
「長生き」
と言った。
次の瞬間にテラスの向こうの庭から照明が差し込み、目をあけていられなくなった。
自家用ジェットが音もなく降り立ったのを知った。夜のうちに出発することは聞いていた。
ペギーは最後まで笑っていた。
「あなたに謝ることがたくさんある」
「わたしだって、キミに謝らなければいけない」
「じゃあ、おあいこってことにして。ジェットまで連れてって」
抱き上げたペギー・カーターは枯れ枝のように軽く、もろくてフランスまでの旅に耐えられると思えなかった。そんな不安を彼女は読み取る。
「大丈夫よ。あの子が最先端のジェットを用意してくれたの。たぶんちっとも揺れないわ」
ペギーは笑っていた。本当に最後まで笑っていた。
なにかいいことを言おうとしてもスティーブには言葉が出てこなかった。ペギーは「大丈夫よ。あなたはひとりじゃない」
そう言って、行ってしまった。ナターシャが用意したジェットは来るときも去るときも大きな音をたてず明るい部分だけを照らして闇の中に消えていった。
「愛している。いまもキミを愛してる…」
ちいさくなったジェットの影につぶやくことしかできなかった。