
Chapter 2
ニューヨークに戻ったのは夜中だった。
そのまま自宅に帰ろうと思ったが、念のためアベンジャーズビルの前を通ったら最上階のスタークの私邸の灯りがついていたので顔をみることにした。聞きたいことがまだある。
とくに連絡もせず入り込んだのをシステムジャーヴィスは咎めもしない。ナターシャはあきれ顔。
「なんで来たの?」
「相談したいんじゃなかったのか?」
「家に帰って彼女の画でも描きなさいよ」
まだ全ページスキャンできてないのよ。と愚痴る彼女はワイン片手に大量のノートにうもれていた。20冊ずつ積んだキャンパスノートの山がざっと2-30はある。ペギーは筆まめだったらしい。
「これで全部か?」
「わけないでしょ。これで10分の1程度よ。自分が60年寝てたのを忘れてない?爺さん」
返す言葉もない。ひとつ手にとってパラパラとめくると、事細かく世界情勢や株価の変動、新聞の切り抜きやホワイトハウスの人事が書き込まれてある。キャプテンアメリカが寝てる間に、終戦と公民権運動と宇宙開発、ベトナム戦争とケネディ暗殺、湾岸戦争、マルタ会談、911があったのだ。ペギーに暇だった時期などあろうはずがない。
「残り10分の9はどこだ?処分したのか?」
「わけないでしょ。これは貴重な資料よ。S.H.I.E.L.Dをひっくりかえせるし、ニックを長官の座から突き落とすネタが100個も200個も転がってるの。S.H.I.E.L.Dだけじゃない、アメリカ政府だってロシア政府だってバチカンだってひっくり返せる。正直、読みたくない!」
そう言ってワインをボトルから飲み干した。呑まないとやってられなかった。
ニックの弱みを掴みたがったが、ここまでの火種が欲しかったわけじゃない。ペギー・カーターに接触したのは失敗だったと思い始めていた。大量の紙の資料は保存するだけでも面倒だ。ソーにいってアスガルドで保存できないか聞いたが断られたことが、さらに彼女を不機嫌にさせる。
これだけの火種を抱えている凄腕スパイを老人ホームにぶちこんで安心していたS.H.I.E.L.Dの連中が理解できない。ヒドラの息がかかった精神科医が出入りしてることもペギーから報告されているはずなのに放置してたのだ。
「彼女がラークムーアクリニックからパリのキミしか知らないクリニックに転院になったことをS.H.I.E.L.Dはいつ知る?」
「甘くみないで。あたししか知らないんじゃない。あなたしか知らないの。書類上はあなたが転院させたことになってる。ところがあなたは知らないし、だれにも言わない、連中はテレパスとか使うかも知れないけど、あなたはプロフェッサーXのお墨付きテレパスが通用しないときてる。聞きたいなら教えるけど、どうする?」
「結構だ。彼女の身の安全のためにも知らないほうがいいだろう。キミを信用する」
「ひとつ言っておくと、転院先はお爺様がペギー・カーターのために用意した場所よ。S.H.I.E.L.D創立から関わっていたのに、能無しに恨まれて充分な昇進もさせてもらえなかったペギー・カーターが認知症になって、べらべらしゃべったらヤバイって思ってたのは本人以上にお爺様だった」
外部から見ていたであろうハワードには思うことがあったのかもしれない。
ハワードがニックが一枚板でなかったことを言ってたのはペギーだったが、彼女自身がその要因のひとつかもしれない。それも今は知ることができない。
60年は長い。
「わたしが書類を手配したことになってるのなら、連中が知るのはすぐだな」
「おそらく明日の朝には知る。つまり、ここであたしたちが接触してるのは、あまりいい材料じゃない」
「もう遅い。キミのジェットを勝手に使ったことにして、今日の接触をすませる。ペギーがノートを書いてたことをニックは知ってると思うか?」
「シャロンがS.H.I.E.L.Dにはいってからペギーの息子夫婦が交通事故で亡くなった。シャロンの両親ね。1年ぐらい一緒に暮らしてたから、シャロンは知ってる。ニックは報告を受けてると思ったほうがいい」
「シャロンとニックの関係はどうだ?ニックをS.H.I.E.L.Dから追放したあと、シャロンはそのパイプ役になるか?」
「なると思う。シャロンはニックに勧誘されてS.H.I.E.L.Dにはいった。でもニックとのパイプ役はブラックウィドウでしょうね」
彼女はつい最近エージェントレベルを最高位の10に引き上げられた。スティーブは6だったのが最近7になった。
「ブラックウィドウをエージェントレベル10にしたのはニックの保険だろう」
「珍しいことに同意見よ。あの昇進はニックのためのものでしょ。自分が追放されたときのためのね。彼はたぶん焦ってる。あたしもあなたも手駒にできなかった。ウィドウがアベンジャーズにはいってるのもニックの差し金でしょ」
「レッドルームから救出してもらった恩義といったところか」
「デキてるのかもよ。女スパイは男で動くって」
「言葉が悪い」
「ペギー・カーターの言葉です」
ノートを渡されたが見たくなかったので断った。
S.H.I.E.L.Dのエージェントレベルはニックへの忠誠度で決まるとはペギーの言葉だ。
S.H.I.E.L.Dはニックが作った、ニックのための組織だ。彼に最後まで抵抗したであろうペギーのノートをニックが欲しがらないはずがない。いま思えば目覚めたばかりの頃、ニックがやたら懐いてきたのはこれを想定していたからだろう。意味のないことをするタイプじゃない。
「今後はどうする?」
そう聞いたときナターシャの眉間にゆるくシワが刻まれたのを見た。その表情は想定外だ、といったふうだ。その表情のまま
「聞いてないの?」
と言った。
「なんの話だ?」
聞き返した途端、ナターシャは手にしていたノートを机に叩きつけた。
「言ってないのかよ、あの婆!」
愛する女性を婆呼ばわりされてカチンときたが、それよりナターシャの怒りのほうがすさまじかった。
「あぁぁもうぅ、なんであたしがぁぁ」
頭を抱えて叫びだした。その怒りに気後れしてしまう時間があった。短くない沈黙のあと、ナターシャはうつむいたまま、別に分けていたファイルを手にして、スティーブのほうに向けて。戻した。
「あたしに怒鳴らないでよ」
そういって渡した。
ファイルにはさまれたノートのコピーは多く、年代がまたがっているのもわかった。
1枚1枚、目をとおす。
1955年。ONUチーム、カイロ。ジェームズ・ケラー、NATO将軍、西ベルリン。ダルトン・グレインズ、英国大使、マドリプール。
1956年。ジャック・デュプイ、フランス国防相、アルジェリア。パリ講和会議でのアルジェリア代表。
1957年。ジェファーソン・ハート、米国大佐、メキシコシティ。
1960年。MI6ディレクター、ロンドン。
1966年。ピーター・ヒッツィヒ、ミラ・ヒッツィヒ誘拐。別紙参照。
1973年。上院議員ハリー・バクスター、ニューヨーク。
1976年。ナン、ワカンダ副首相、スイス。
1983年。ライナス・タラソバ、ジーナ・アウディ、ニューヨーク。ヴァシリー・カルポフ将軍のボディガードとして1988年まで確認。
アレクサンダー・ルーキン?
暗殺や誘拐、破壊工作の資料だった。世界をまたにかけた活動だった。どれもロシア絡みだ。
「これがなんだ?」
「よく見て。写真を見て」
1950年代、1960年代の写真が多い。いまの技術には及ばない解像度の悪いぼんやりした写真。そのなかに黒い髪の男。ペギーが赤いペンで丸をつけて横に?マークをつけてる。
どの事件の、どのファイルにも黒髪の男はいた。黒い髪は珍しくない。スティーブはもういちど聞いた。
「これがなんなんだ?」
ナターシャは苦虫をかみつぶしたような顔のまま、ピーターとミラの事件の別紙を指さした。この事件ではじめてS.H.I.E.L.Dは黒髪の男に接触した。ペギーはそれから過去の事件を洗い出して、いくつかの事件をピックアップした。謎の暗殺者はずっとロシアの外交のために暗躍してきた。S.H.I.E.L.Dは彼にウィンターソルジャーという名前をつけた。
冬しかないロシアのために戦う男。ピーターとミラの事件は1966年。けして写真の技術がよかった時代ではない。だがハワードが牽引してきたS.H.I.E.L.Dの科学技術は、その男を横顔ながら映し出していた。スティーブが少し戸惑う。
ふいにひとつの仮説が思い浮かんだが、それはあまりに現実味がないように思えた。自分の勘違いだろうと、写真に向きなおした。だがいちど浮かんだ仮説が脳からはがれなかった。
「そんなはずはない…」
知らずに呟いていた。アレクサンダー・ルーキンと一緒に飛行機に乗り込む画像があった。いままでのとは違い解像度がいい。
「そんなはずはない……あるはずがない……」
もういちど呟いていた。
ナターシャは新しいワインボトルをあけて、そのまま胃に流し込んだ。
スティーブに会わせる顔がない、このまま黙ってフランスに行きたいというペギーを説き伏せたのはこのためだ。ペギーから話してくれるよう頼みこんだ。あまりに荷が重い。愛した女性から話してくれればいいと思ってた。
老獪な女スパイはボケてても自分の要求を貫きとおす。このことを想定していなかった自分に嫌気がさす。海千山千の世界情勢を泳ぎ切ったペギー・カーターを甘く見てた。
こんなことをスティーブに告げる役目を仰せつかりたくはなかった。
「そんなはずはないっ!」
ガン!
と両手で机を叩きつけるスティーブを見ていた。鉄製でなければ割れてた。こうなることは想像してた。だから本当に嫌だった。
「どういうことだ、これはどういうことなんだ!」
「あたしに怒鳴るなって言ったでしょ!あたしだって知らないわよ!」
ガン!
もう一度机を叩きつけた。今度は鉄製の机がすこしヘコんで、ナターシャは軽く身の危険を感じた。だからペギーから言うべきだったのだ。舌打ちがでそうになったが、見咎められたらそれこそ命に関わる。立ち上がったスティーブを見て反射的に身をひいた。怖かった。鍛えたこともない情緒不安定な小娘が勝てる相手じゃない。
「どういうことだ!これはいったいどういうことだ!」
「知らないわよ!あたしが知るわけないでしょ!」
「どうしてバッキーが!なぜバッキーがロシアの将軍と一緒にいるんだ!」
「知らないって言ってるでしょ!」
ナターシャが聞いたのも最近だ。
ペギーは泣きながら告白してくれた。スティーブに会うたび心が張り裂けそうだったと涙をぽろぽろこぼしていた。
「バッキー・バーンズが生きていて、ロシアにいるんだぞ!」
「あたしに怒鳴らないで!こっちに来ないで!」
激怒してる男の前に立つほど怖いもの知らずでもない。キャプテンアメリカに腕力に勝てるわけもない。いきりたって壁を殴るスティーブを見るのも怖い。いますぐ部屋を出ていってもらいたい。怒ってモノにあたる屈強な男と同じ部屋にいるのは恐怖でしかない。
その怒りがどれだけ理解しやすいものだったとしてもだ。
「バッキーが生きてるんだぞ!」
叩きつけた拳が壁に穴をあける。
「もう出ていって!出てってよ!」
このままだと部屋が穴だらけになる。このラボにおいてる機材のひとつでピーター・パーカーの年収を軽く超える。全部壊されてはたまらない。
「出てって!」ナターシャの声と、スティーブの拳がパネルを壊す音。そして彼が叫んだ。
「やめてください!」
執事がぼろぼろ泣きながら叫んでいた。
「もうやめてください。ほんとうに、もう本当に……やめてください」
うなだれて入口で泣き崩れる執事にナターシャは駆け寄る。いままでの恐怖など関係ない。ジャーヴィスがなにより大事だ。彼が苦しむことは許されない。
「ごめんね、ジャーヴィス。ごめんなさい。夜中に大きな声をだしてごめんなさい」
震えて泣く執事の肩を抱きしめて、ごめんなさいと愛してるを繰り返す。なんとか彼を立たせて部屋まで連れて行く。ジャーヴィスを泣かせるつもりはなかった。
スティーブにもそうだ。
だれかを泣かせたり、追い詰めたりしたかったわけじゃない。だがどうしても気持ちがおさまらなかった。拳をかためて鉄製のテーブルを叩きつけた。大声で叫びたかったが、ジャーヴィスの涙が背中にのしかかっていた。歯を食いしばって、鉄のかたまりを叩きつけていた。
ふいにタオルを投げつけられた。
戻ってきた彼女が不機嫌そうな表情で言った。
「泣けばいいのよ」
なにを言ってると叫びたくなるのを、かろうじて食い止めた。力み過ぎた口から血の匂いがした。
「怒鳴り散らすような人とは仕事はしない。怒って解決すると思ってる人とは仕事はしない。あなたが生まれた時代は、みっともないって言うんだろうけど、泣けばいいのよ。他人を怒鳴ったり、物を壊すことで気持ちを切り替えようとしないで。泣けないのなら、もう出て行って。ジャーヴィスを泣かせるようなひとは家にいれたくない。出て行って」
そう言って去っていった。ジャーヴィスのもとに向かったのだろう。
スティーブは少し混乱していた。泣くとは、どういうことだ?言われた意味がわからなかった。本気でわからなかった。男は泣いたりするものじゃない。祖父からも父からもそう言われた。母にも言われた気がする。男は泣くものじゃない。泣き虫は弱虫だ。スティーブ・ロジャースは昔から虚弱体質ではあったが性根の強い子供だった。泣いたことなどなかった。
父親が死んだときも、母親が死んだときも泣いた覚えがない。バッキーが死んだと知らされたときも涙がこぼれることはなかった。
男は強くあるべきだと言われ続けてきた。弱さを見せず、他人に、とくに女にバカにされないように教育されてきた。泣けばいい?意味がまったくわからないまま呆然としていた。
ふいに泣き声が聞こえた。
ジャーヴィスが悲痛な声で泣きだした。トニー・スタークが生きていたという情報がどんなふうに出てきたのか、まだ聞いてない。だがそれがジャーヴィスを苦しめているのはわかる。ナターシャが苦しんでいたときジャーヴィスを奮い立たせてきたのは、それまで仕えていた主人たちへの想いだった。トニー・スタークが生きているということは彼にとって自分を支えていたものが崩れるのと等しい。
エドウィン・ジャーヴィスの泣き声がスティーブの背中に突き刺さる。
泣いていた。
ジャーヴィスはわんわんと子供のように泣いていた。彼はずっとそうだ。ナターシャが苦しんでいるのを我がことのように泣いた。男なのに泣いていた。
それを見ているとき、みっともないと思ったか?
スティーブは自問する。そんなことなかった。彼の苦しみを思えば涙が流れるのも当然だ。彼はモノに当たったり、ひとを怒鳴りちらしたりしなかった。ひとりさめざめと涙をこぼして、ひとしきり泣いたあと、手を動かすような男だった。
なぜそれができない?
スティーブは自問する。また甲高い泣き声が響いた。
その泣き声が聞こえたと同時に涙がこぼれた。
意識していなかった。唐突にボロボロと涙がこぼれてきた自分に驚いた。こんなふうに泣くことができるのかと驚くと同時に涙がとめどなく流れて止らなくなっていた。
「あぁ……」
こんなふうに泣くことができる自分が信じられなかった。いちど溢れてしまった涙を戻すことはできない。泣くことができてしまったあと、戻ることもできない。
「ぐうぅぅ」
なんとか止めようとする自分がいた。
だが止まらなかった。ジャーヴィスの泣き声と同時に泣き出していた。バッキーが生きていること、それを今の今まで知らなかったこと、生きている彼がやにわ信じられない境遇にいること、ペギーが去っていったこと、ペギーと2度と逢えないであろうこと。1945年から唐突に帰ってきた、この時代が自分を拒否しているようで涙がとめられなかった。
止めようと歯を食いしばっても息をとめても涙はお構いなしにこぼれる。これほどの量の涙が自分にあったのかと思い知らされる。
とめられないと観念したと同時に、自分でも聞いたことのない嗚咽の声が漏れ出た。泣いていた。
ボロボロと泣いていた。バッキーとペギーのことを思って、夜に泣いていた。
疲れ果てたジャーヴィスが眠ったので、ナターシャは風呂に入ることにした。
心身ともにくたくただった。こういうときは風呂に入って暖かい湯で身体をほぐすにかぎる。身体がほぐれば心も落ち着く。フリッガにも言われた。いちどに全部を解決しようとしなくていい。できる仕事から解決していけばいい。そのなかには自分の身体や精神を安定させるという仕事もある。それは他人の手を借りずにできることでもある。風呂にはいれば、とりあえずは身体の疲れがとれる。それが精神を落ちつかせる。家を改築するとき、大きな湯船を準備するように言って正解だった。やるべきことはいろいろあるが、どこから手をつけていいのかわからないときは自分の心身を整えることを優先させればいい。
熱い風呂にはいって、サウナにもはいった。たっぷり湯に浸かって落ち着いたあと、タオルで身体を拭きながらウォッシュルームにはいった。
洗面台で顔を洗ってるスティーブがいた。
「どう?」
と声をかけた。
少し気まずいような表情で「すまなかった」と彼は謝った。
「キミに怒鳴りつけるべきではなかった。ラボの機材もいくつか壊してしまった。弁償する」
「あなたの収入で治せるものなんて無いわよ」
ナターシャは大きなバスタオルを叩きつけた。
「?」
「あなたも風呂に入ってきたら?落ち着くわよ」
また意味のわからないことをいわれたスティーブは、なにか言うべきなのだろうか一瞬考えて諦めた。泣いたあとどうすることが正解なのか、初めて泣いた男にわかるわけもない。泣きなれてる女に従うほうがいいだろうと判断した。
「キミの言葉に甘えよう」
「なんか適当な服を用意させとくわ。ごゆっくり」
とナターシャはドライヤーを手にする。気になってることを聞いた。
「キミは他人に裸を見られても、なんとも思わないのか?」
女は鼻で笑った。
「ちょっと前まで、クスリやったあたしをひん剥いて湯船に突っ込んでたあなたが今更なに言ってんの?」
「それもそうか」
あのときはそんなことを考えてもなかった。これも泣いたからもしれない。スティーブも湯船に浸かることにした。
懐疑的だったスティーブも認めざるを得ない。熱いお湯にはいると身体と心がほぐれていくようだった。涙腺がふたたびゆるくなり涙が落ちてきた。面倒なので、そのままにして長く風呂にはいった。涙が止まったら出ようと決めてからも、とめどなく涙がこぼれて肌がふやけるほどはいっていた。いつもシャワーですませていたので、これだけ長く湯船につかったのは人生ではじめてかもしれない。
軽い脱水症状を起こして、あわてて出た。洗い立てのシャツとGパンがおいてあった。システムジャーヴィスは仕事が丁寧だ。着替えて、もういちどラボに向かう。彼女はまだ仕事をしていた。
改めて、壊れたラボの機材を目にして申し訳ない気持ちがわいてきた。
意味もなく壊してしまった。バッキーの境遇は彼女にも機材にも、なんの関係もない。それぐらいのことはわかっている。それなのに止められなかった。自分がここまでみっともない行動をとる男だったと突き付けられた。
「反省した?」と聞かれ
「あぁ」と答えた。
自分がしてきたことを見ることは大事なことだ。アルコールに逃げてた彼女を追っているとき読んだ本にも書いてあった。それが自分に向けられたものだとは思ってもなかった。
「本当に申し訳なかった」
「じゃあこれでチャラってことで」
彼女も同じことを考えていたのだろう。だが納得できない。
「キミに謝ってもらった覚えはない」
「はいはい、ゴメンね。ゴメンね」
夜中だというのにピザを渡される。彼女の仕事はまだ終わらないらしい。だが確かに、泣くと体力をもっていかれる。夜中のチーズピザは魅力的だ。
一切れ口にする。
食べながら聞いた。
「トニー・スタークが生きているという話はなんなんだ?」
「仕事熱心ですこと」
そう言いながら、3次元モニターを浮かび上がらせる。青い光で浮かび上がるどこかの高層ビル。その上層階をぐるりとまわって、ひとつの部屋の窓に近付く。詳しくは聞いてないが、だいたいの予想はつく。
「ヴァージニア・ポッツの自宅か?」
「そう。彼女の家にもデフレクターをつけたの。マンダリンはあたしの親しいひとも狙う。ポッツは対外的にはあたしと敵対関係ってことになってるけど、それに騙されてくれるとは思えない。ポッツとハッピーとローディーの自宅にはデフレクターを設置したの。べつに黙ってしたわけじゃないからね。セキュリティソフトが必要だってことを知らないメンツじゃないってだけ」
そしてナターシャを信じているのだろう。
「だが、この情報はなんだ?」
「ポッツの家に設置したデフレクターを内部からいじった形跡がでたの。お爺ちゃんにわかるかどうか知らないけど、アップデートのときに気付いたのよ。いっぺん設置したから未来永劫絶対安全なんてことはありえないの、わかる?」
「あぁ」ウソをついた。だがそういうものだろうとは思った。
「ポッツは個人的にも会社にも大事なひとなの。ジャーヴィスが狙えないと知ったら、彼女を狙うんじゃないかって懸念はずっとあった。だから注意して見てた。デフレクターをいじるなんてことをポッツがするとも思えない。だれかが彼女の部屋に勝手に入ったのならデフレクターにもひっかかるはず。だからちょっとカマをかけたら彼氏が出来るかもって聞いて嫌な感じがしたの。甘い言葉をささやいて近付く悪い男とかよくある話じゃない。ポッツには幸せになってもらいたいけど、念のため、念のために超小型ドローンを飛ばしてのぞいただけよ」
「感心しない……」
トニー・スタークが娘を心配して盗聴器をしかけていたという話はポッツから聞いていた。似た者親子なのだなと思った。
「安全を期すためよ。そこで見つけたのがコレ」
青い細い縦線で表示されていた建物が、男の顔になる。髪をそった中年の男だった。スティーブやソーのように鍛えてはいないが、ピザばかり食べているようでもない。柔和な顔をした女性にモテそうな男だと思った。
「彼がトニー・スタークなのか?」
青い線ではわかりにくい。スティーブは会ったことがないし、ネットで見た印象とは違うように思えた。
「髪も剃ってるしヒゲがないし、パッと見わかんないかもしれないけどパパよ。さすがに間違えたりしない。あなただってバッキーを見間違えたりしないでしょ。これはパパよ、間違いない」
プリントアウトした写真を突き付ける。ジャーヴィスがあれだけ泣いてるのだ。間違いないのだろうが、それでもスティーブは懐疑的だった。バッキーのことを言われたら返す言葉もないが、どうにも納得できなかった。
ポッツと笑いあってる男の顔が、聞いてるトニー・スタークと思えなかった。
「なんでそんなに疑うわけ?あなた、パパと会ったことないでしょ。あたしとジャーヴィスがパパだって言ってるのよ、いまポッツに近付いてる男はパパよ。間違いない」
スティーブは受け取ったプリントアウトされた紙をテーブルにおいて黒いペンでシャツを塗った。首から下まで黒く塗ってから、もういちど紙を手にとり腕をのばして見た。
「老眼?」と思ったが黙っておくことにした。スティーブがふざけるような男じゃないことを知っていたからだ。
何度か角度を変えて見てから、しっかりとナターシャを顔を見て言った。
「彼を知ってる」
「は?」
スティーブの眉間には深いシワが刻まれていた。
「S.H.I.E.L.Dの職員だ。最近、一緒にミッションを遂行した。よくしゃべる技術系の職員で腕がよかった」眉間の深いシワはますます深度を高める。「なんのミッションだったか思いだせない……」
テレパスに記憶を操作された可能性は低いと思いたい。なにしろプロフェッサーXから精神に侵入しにくいとお墨付きをもらったのだ。それを想定してペギーの移送をしたのに、ここで崩れると面倒だ。
スティーブは手をくわえたプリントアウトされた男をまじまじと眺める。
システムジャーヴィスは気をきかせたつもりだった。
「やぁ、キャップ。会えて光栄だ」
唐突に父親の声がラボに響いてナターシャは軽く身構えた。スティーブは目が覚めたように顔をあげる。そしてもういちど言えと指示をおくる。システムジャーヴィスは執事同様に気が利く。
「やぁ、キャップ。会えて光栄だ。キミのことは子供のころから聞いてる。まさか生きて会えるなんて思ってもなかったよ」
いかにも父が言いそうな軽口を父の声とイントネーションで続ける。自分で作ったとはいえ、人工知能システムジャーヴィスの進化に驚いていた。同様にスティーブも驚いていた。
見た覚えのある顔と聞いた覚えのある声に、記憶が押し出されてきた。こういう体験は懐かしかった。どんなことでも細かく覚えているほうだったが、血清でさらに覚えるようになった。ひさしぶりの思い出すという感覚に戸惑っていた。
ナターシャの顔をしっかり見て言う。
「アルノ・アームストロングだ」
言われても知りませんという表情で見る彼女を尻目に、堰をきったようにあふれる記憶をつなぎとめる。
「アルノ・アームストロング。S.H.I.E.L.Dの諜報員だ。ラトベリアからの武器輸入調査するために行ったんだ。ウルヴァリンもいた、デアデビルも。あとS.H.I.E.L.Dの諜報員が3人。彼とブラックウィドウともうひとり。女性だった。髪は黒、瞳は茶色」
ナターシャがあわてて写真をとりだしてみせた。
ビンゴ。
「そうだ。彼女だ。なんでわかった?」
「彼女はデイジー・ジョンソン。経歴不詳。ウィドウと同じく、エージェントレベル10の諜報員」
S.H.I.E.L.Dのエージェントレベルはニックへの忠誠度。
「そうだ思いだした。ヒーローとS.H.I.E.L.Dの諜報員でラトベリアに向かった。ニックからの要請だ。ヴィクター・フォン・ドゥームが行方不明になってキナ臭くなったラトベリアに向かったんだ」
アスガルドから帰ってきたあとニュース記事には目をとおしていた。
「いつの話か思いだせる?3ヶ月前だったら面倒よ」
「3ヶ月前だ。キミはアスガルドにいた。キミが帰ってくるまでニックと接触する気はなかった。彼は駐車場で待ち伏せしてた。ヘリキャリアに行って、合流して、ラトベリアに行ってルシア・フォン・バーダスに会った」
「会ったんだ……」
面倒のど真ん中だ。
ドゥームの後任だったルシア・フォン・バーダスは3ヶ月前に暗殺されている。そのタイミングで帰国したヴィクター・フォン・ドゥームが首相になって今にいたる。犯人は処刑されたという話だが、ドゥームの話を信じる気はない。
スティーブは細かいことも思いだしていた。
「バーダスはドゥームが開発した兵器を量産して、いろいろな国軍やヴィランに売りさばいていた。ドゥームの技術を利用してアメリカ合衆国にテロ攻撃を仕掛けようとしているとニックは言っていた。バーダスの逮捕を大統領に提案したが、アメリカ政府の支援で立ち上げられたラトベリア政府を倒す許可は認められなかったらしい。9.11を忘れたのか!と激怒していた」
「その証拠はマジであったの?」
「わたしは見てない。ニックのことだ。証拠を捏造するのも造作もないことだろう」
「大統領もそう思ったんじゃないの?同じ失敗を2回もしたくないわよ」
ルシア・フォン・バーダスがどういった女性だったのかナターシャは知らない。スティーブが思いだすかぎり、品のある美しい女性だった。黒い髪と緑の瞳。優秀な外交官だったという話だ。握手もした。細い腕だった。この手で握手をしたと右手を見る。
ナターシャは容赦がない。
「あなたが殺したの?」
「覚えがない。だが、その可能性はある。ラトベリアに行って、調査して、急いで戻った。調査結果がどういった内容だったのか確認してない」
「いつものあなたならあり得ないわね」
「あぁ」
キャプテンアメリカが国外で政治家と会って、なにをどうしたのか把握しないなんてことをスティーブ・ロジャースが容認するわけがない。キャプテンアメリカをどうプロデュースするかいちばん神経質に見張っているのはスティーブ・ロジャースだ。東欧の火薬庫ラトベリアに行って帰って、ほったらかしにするはずがない。
「あなたがいまのいままで忘れてたとか信じられないんですけど?」
「わたしが嘘をついてると?」
「もっと信じられないわ」
ナターシャはスキャンしたペギーのノートのなかから、お気に入りにいれてるページを映し出す。ヒドラから押収した機材のページだ。
「Memory Suppressing Machine……」
「記憶抑制機ですって。当時のソ連に卸した記録もあるってペギーは書いてる」
バッキーのことがよぎったが、いまは出来ることから手をつけていくしかない。
「押収した記憶抑制機をわたしに使ったということか?」
「もしそのアルノ・アームストロングとやらがパパなら、あたしよりよっぽど天才よ。トニー・スタークはまじりっけなし純度100%の天才なの。あたしとは違う。ニックの下で働いてるなら、当時の抑制機を小型化することも、精度を高めることもできる。パパならできる。トニー・スタークはリード・リチャーズよりよっぽど天才」
リードは宇宙線でバフがかかっただけだとナターシャはずっと言ってる。
「ウルヴァリンを同行させたのも記憶消去が前提だと考えれば合点がいく」
彼は昔から記憶が曖昧だ。
「デアデビルについては、あたしたちは知ってることが多くない。でもニックの手下とは考えにくい。ウルヴァリンと似たところがあるのかも知れないわね。ニックはそれを知ってるのかも」
デアデビルのことは後回しにするしかない。できることから、やっていくしかない。
「ニック・ヒューリーを弾劾するのは、このカードを使う。ペギーのノートのことを表沙汰にする必要がないし、あなたから発信できる。ニックをS.H.I.E.L.D長官の座からひきずりおとすわよ」
黙ってうなずいた。
現代は天才が多すぎると思った。