
使い込まれた黒褐色の天板に、コツ、と空のグラスを置く。
いつもは賑わっており、ざわめきと小競り合いの絶えないバーをモデルとした場所だが、ここでは客も店員もおらず、音楽も流れていない。そのせいか、店内は実際の広さ以上にがらんとしている。
その中でただ1人グラスを傾けている男、ジェイク・ロックリーがいた。
誰もいないのをいい事に、カウンターの中にずかずかと入り込み、棚の上の方にあるラムの瓶を次々とカウンターに並べ、その横に見慣れたロックグラスを置いた。一度も味わえぬまま死ぬと思っていたのだから、ここでくらい、今夜くらいは、何を飲んでもいいだろう。
蓋を外した瓶を鼻の下に潜らせる。強いアルコール臭と種々のスパイスの香りが混ざりながら鼻をくすぐり、思わず口角が上がる。殆ど減っていない瓶を傾け、とくとくと木樽色のラムを注ぐ。蒸留酒はいつだって、ロックグラスに並々と注いでストレートで楽しむのに限る。
特別な時の酒は表に出て誰かと共有したい性分だが、あいにくつい先日までバンパイアが大量発生していたことによるマンハッタンの混乱は未だ収拾がついておらず、なじみの店もやっているか怪しいもんだった。それに、コンスが、いやマークが劇的な生還もとい復活を果たしたために顔を知るものがいればいらんことを聞かれかねない。誤魔化すのは簡単だが、好んでやってのけたい気分ではなかった。
ならせめて。1人でも。この空間にいる時だけは、思いのまま酒を味わって、久しぶりの生きている実感を堪能したかった。
ゆっくりと杯を傾けること4杯目、次の棚を開拓するかとバーの内側にすべりこみ、また上方の棚に手を伸ばしたところで、どこからともなく声が響いた。
『いつもの酒にはしないのか』
思わず店内を見渡すが、もちろん誰もいない。誰の声か?考えるまでもない。
「こういう時は格別な一杯でもてなすべきだろ」
言葉は返ってこないが、小さい笑声がまた頭の中に届く。癪だが、同意する時の声音だ。
「そういうあんたも献杯でもしてんじゃないのか、俺たちを生き返らせてくれたコンスに。お高くとまった執務室でもこさえて」
沈黙とため息。呆れているのではない。久しぶりの酒を堪能しているらしい。
『今回ばかりは、今までのように還って来られるとは思わなかった』
「俺もだ」
生き返られたとしても、何か大事なものを失っているんじゃないか。俺たちは死んだままだったのではないか。あの瞬間、マークの決断を支持した事は全く後悔していないが、恐怖心を抑え相応の覚悟を持って臨んだのも事実だ。
『珍しいほどに素直じゃないか。コンスは君の皮肉は蘇生してくれなかったのか』
「ウチにこもってこれだけの美酒と出会えたんだ、感謝の気持ちを込めて多少は優しくなれんだよ。それがスティーヴン、小憎らしいあんたであっても」
しばらく頭の中の声は止み、これ幸いとジェイクはまた数杯ラムを飲み続けた。
目下のところ、スティーヴンは金がないまま、ジェイクの得意分野はミッドナイトミッションの面々で十分まなえるはずだ。パチモンのムーンナイト、もといシュラウドもマークがいいように片をつけるだろう。下手に顔を突っ込むと、厳粛な制裁を求めるコンスと解決策に悩むマークとのどちらかも詰られそうだ。
ということをつらつら考えているうちに、この己の世界にまだしばらく閉じこもって英気を養えそうだという結論に達した。Carpe Diem、どうせ近いうちに忙しくなるんだから、楽しめる時楽しめという格言に従うのが一番。あの言葉の後に続くのは確か...。
『Memento Mori』
「ハッ、盗み聞きか?いつからそんな芸当ができるようになったんだ、スティーヴィー?」
『FYI、全部口に出ていたのを聞いたまでさ』
生き返って初めての飲酒だからか知らないが、思った以上に酔いが回っているようだ。だが、それをスティーヴンにまっすぐ指摘されるのは気に食わなかったので、ガキっぽく舌打ちをしてやった。
『ラム以外は飲まないのか...その、ウイスキーとか』
目一杯の反抗を意に返さない彼の反応には釈然としないが、他愛もない会話を続けようとするあたりに、珍しくスティーヴンも酔いが回っている様が感じ取れて、ジェイクは素直に話を続けることとした。
「一度喧嘩になった相手に、真正面からウイスキー臭いゲロを吐かれてからはな」
『惜しい...ここでこそ、一般には手の届かない一級品まで味わえるというのに』
「それを言うなら、スティーヴン、あんたは元の住処からいくらかコレクションを持ち出してんだろ?それをちょっと分けてくれや。ひょっとして、ミッドナイトミッションに隠してんのか」
沈黙、皮肉も否定もなし。おっこれは図星か。
『あれは僕のパーソナルスペースだ。我々がマークの寝床に入らないのと同じようなもののはずだ』
「そうかい」
『だから、代わりに僕のおすすめを教える』
ポリシーに反する提案を受け入れる。そんな雰囲気を滲ませようと、しばらく黙ってみたが、その間にもジェイクは再度カウンターの中へと飛び混んでいた。
「...ゲロ臭さを思い出さずにすむようなやつで頼むぜ」
うんちくを混ぜながらあれこれと品名を上げるスティーヴンの声を半ばほど聞き流しつつ、言われるがままに瓶をカウンターに載せていった。他人の趣味嗜好を教えてもらう、なんてありふれた行動なのに、いや、だからこそ改めて自分が生きているのだと実感でき、変に感慨深い気持ちになっていた。お礼、というほ仰々しいものではないが、このスティーヴンの好意に酬いるには、素直に彼のおすすめを楽しむのが一番だろう。
バーカウンターの上は、出しっぱなしのラムの瓶と合わせて、さながらボウリングのピンのように瓶が乱立していた。その端っこに脚付きの小ぶりなグラスを載せる。
おすすめの飲み方はソーダ割りだ、と言うスティーヴンを無視しして、カウンターの中から一本目のスコッチ・ウイスキーをグラスに注ぐ。初めてのやつとは真正面から混ぜ物なしに楽しむのが、ジェイクの流儀だ。そこは譲れない。
「L’chaim」
『マーク・スペクターの復活に』
「俺たちの生還に」
そして、ジェイクは手にしたグラスを安酒のように一気に煽った。木の香りに涙のような塩気、たくさんの花や香辛料の匂い、それらが渾然として初めて知る味となり、口の中を包み込む、その感覚がたまらなく心地よかった。