
下顎を頤に食い込ませるように手元を見つめて、知らず眉間に皺が寄る。
リボンタイを綺麗に結ぼうとして、けれど、いつもと違う勝手にニュートは苦戦していた。
鏡の前に座って長い足をぷらぷらさせながら、ピケットが面白そうに眺めているが、何ら助けにもなりそうにない。
作戦を変えようと頭を上げて鏡を見れば、暖炉が小さく震えるような誰かがやって来る前触れを感じ、ニュートは手を下ろし体ごと振り向いて暖炉を見遣った。
やがて小さな緑色の火花が散ったかと思うと、ごお、とエメラルドグリーンの炎が勢い良く燃えて、中から長身の影が現れる。
ニュートと揃いの礼服に、白いネクタイの隙の無い着こなしをしたテセウスが、軽く灰を落とし、ニュートのリボンタイを見付けて目を眇めた。
「テセウス」
ニュートが声を掛けるとテセウスは何も言わず、ただ、右の人差し指をくいくいと曲げて、自分に近付くように指示をする。ニュートが素直に近付くと、テセウスは難しい顔をしてニュートの首元に手を伸ばした。
「交差結びでいいな?」
「あ、うん」
細身のリボンタイの両端を摘まむと、顎を上げろ、と指示してテセウスがタイを結び始める。
時折、テセウスの細い指の関節がニュートの喉元を擽った。ニュートが首元にテセウスの指を感じる度に、息が掛るほどの近くにあるテセウスの顔から敢えて目を逸らす。うろうろと目を泳がせて、けれども、俯いている兄の長い睫毛や、細い鼻梁、薄桃色の細く結ばれた唇にちらちらと目が吸い寄せられた。
やがて、タイの長さを調節して、よし、とテセウスが頷くと、ニュートの上げていたシャツの襟を落とし、襟の内側に指を入れて扱く様に整える。
「これでいいだろ?」
そう言って肩を掴まれ、くるりと向きを変えさせられて、ニュートは鏡に映る姿を見た。
揃いの礼服を着て、兄弟が並んでいる。
本当は、六月に着る筈の礼服だった。
花婿と、付添人となる筈が、今こうして、友達の結婚式に出席するために、二人して並んでいる。
テセウスは少し顎を上げて、自分のネクタイの結び目を調節していた。その横でどぎまぎと鏡に映る兄の顔を盗み見て、けれども、ニュートはテセウスが鏡越しに自分と目を合わせてくるから、思わず、瞳を伏せる。
「マグルと魔女が結婚するなんて。歴史的な日だな」
テセウスが鏡の中でにっこりと笑ってみせた。ニュートも小さく微笑んで、うん、と頷く。
「時代は変わっていくね」
ニュートの言葉に、テセウスが頷いて見せた。
鏡に映る、揃いの礼服を着て並んでいる姿に、ニュートはふいに思う。
その内、男同士でも結婚したりするんだろうか。
「それは、どうかな?」
背中に手を伸ばし、こっそり近付こうとしていたテディを鷲掴みながら、テセウスが言った。
「え?」
「さすがに、それは一寸、問題じゃないか?」
そう言って、テセウスはじたばたと暴れるテディをニュートに押し付ける。タイを触るな、とテディに念押しをするテセウスに、ニュートは吃驚した様に、目を見開いた。
「え、僕、声出してた?」
心の中で呟いていた筈の言葉に反応を見せたテセウスに、ニュートはかっと頬から耳まで赤くなる。
「独り言が出るようになると、やばいぞ、色々と」
小さく溜息を吐きながらそう言うと、テセウスはじゃあ、僕はホグズミートへ寄ってから行くよ、と告げた。
「クリーデンスの接見日だから、取り合えず、そっちへ行ってから、ニューヨークへ行くよ。お前も、さっさと出掛けなさい。スピーチの練習はしたのか?」
行く前に、一度聞いてやろうか?とテセウスが問えば、え、いいよ、とニュートが恥ずかしそうにはにかみ薄く唇を噛んで目を伏せる。
何時もだったらその前髪をくしゃくしゃとしている処だが、折角セットしている前髪を崩すわけにもいかず、テセウスは小さく笑うと、また後で、と暖炉の前に進むと、フルーパウダーをわし掴んで暖炉の中に入って行った。
何処かを経由して行く地域の名前を唱える声が聞こえて、次いで、エメラルドグリーンの炎が勢いよく燃えて、一瞬にして静かになる。
一人ぽつんと取り残されて、ニュートはもう一度鏡を見遣った。
「花婿が二人並んでるみたいだったんだ」
そう独り言ちると、ニュートはテディを撫でながら、ピケットに告げて、ふふ、と寂しそうに笑う。
「さて。スピーチだよ」
どうしよう、とテディをおざなりに放り出すと、抗議の声を無視して、机の上に置いていたメモに手を伸ばした。
「体調はどう?」
薄暗いパブの片隅のテーブルに着き、テセウスは目の前に座るクリーデンスに尋ねた。
開店前のパブの中を、モップを手にしてうろうろしながら、息子をちらちらと見遣るアバーフォースの姿に、思わずふっと吹き出しそうになり、テセウスは溜息に変えてごまかす。
「良くもないけど、悪くもないよ」
青白い顔で、けれども小さく笑って見せるクリーデンスに、テセウスは、そう、と小さく頷いた。
「毎日、よく食べて、よく働いて、よく寝なさい」
報告書に何かしら書き込みながらテセウスが言えば、クリーデンスは嬉しそうに口元を綻ばした。
「父さんが作るシチューは美味しいんだ」
小さいけれども明るい声に、テセウスは目だけを上げると、慌てて背を向けるアバーフォースを見遣るクリーデンスを見付けて、口の端を釣り上げて笑う。
「知ってる。けど、あの見た目はどうかと思うけど」
テセウスの言葉に、クリーデンスがふふふと笑った。
「だよね」
肩を竦めて見せるクリーデンスに、テセウスはにっこりと笑った。
「アバーフォース。異見がなければ、此処にサインをしてくれ」
そう言って、そっとこちらを伺っていたアバーフォースにテセウスが報告書を翳して見せると、おう、と不機嫌そうな顔と声でアバーフォースが応えた。
アバーフォースが報告書を読んでいる間、クリーデンスが皆に宜しく伝えて、とテセウスに頼む。
「ああ、分かった」
「クイニーに、お幸せにって言っておいて」
テセウスが頷くと、ふいに、パブの扉を誰かが叩いた。
「開店前だ。出直してこい」
「だから、来たんじゃないか」
そう言って勝手に扉を開けると、ダンブルドアが顔を覗かせる。
「何だ、何の用だ」
不機嫌極まりないアバーフォースの声に、テセウスがさっさと退散しようと腰を浮かせると、ああ、君に話があるんだ、とずかずかと入り込んできたダンブルドアが顎をしゃくってみせた。
ほらよ、とアバーフォースがサインをした報告書をテセウスに寄越すと、さっさと帰れよ、と毒づいて、二階へ上がっていく。
「クリーデンス。昨日の続きをするぞ」
そう言って、アバーフォースはずかずかと階段を上がっていき姿を消した。
「今は何を勉強している?」
テセウスが尋ねると、紅茶占い、とクリーデンスが嬉しそうに笑って、じゃあ、行くね、と二人に告げて、二階へと上がっていく。
「あのアバーフォースがねえ」
そう言って、テセウスがくふふふふと笑えば、ダンブルドアはただ眉を吊り上げて、目を回して見せた。
「ところで、話ってなんですか?」
そう言って、テセウスが報告書を読み返しながら尋ねると、ダンブルドアはテセウスの横顔を眺めながら、花婿の衣装かな、と呟く。
「ええ、僕の結婚式で着る予定でした」
淡々と返しながら報告書を折りたたむテセウスに、ダンブルドアは梟便で出しておこう、と手を伸ばした。
封筒に報告書を入れると、お願いします、とテセウスはダンブルドアに渡す。
テセウスが漸く正面にダンブルドアと目を合わせると、手紙を受け取ったダンブルドアが覗き込む様にテセウスの目を見つめた。
「私は、君が幸せになるのを願っている」
そう言って、ダンブルドアが微笑む。その笑顔に、テセウスは溜息を吐いてがっくりと項垂れた。
「僕はそんなに情けない顔をしてますか?」
そう言って、吹っ切ったように顔を上げると、テセウスは暗い鏡の前へと歩いて行く。曇った鏡を覗き込んで色んな角度で顔を見ていると、後ろからやってきたダンブルドアが隣に立った。
「花婿が二人の結婚式も何時かはあるんだろうか?」
ダンブルドアの呟きに、テセウスは如何にも阿保らしいと溜息を吐く。
「あなたが、ニコラス・フラメル並みに長生きしたら、あるかもしれませんね」
それで、話って?とテセウスが横に立つダンブルドアを見遣れば、うーん、とダンブルドアが困ったように笑った。
「ただ、一寸、君に会いたかったんだよ」
そう言って、ダンブルドアがテセウスを見上げる。
「大丈夫ですよ、僕は」
大きく溜息を吐いてテセウスが言うと、ダンブルドアの武骨な指がテセウスの頬に垂れた髪を、耳殻の後ろに押し込んだ。
「貴方が約束を守ってくれたら。僕は幸せになれますよ、きっと」
耳裏から顎先に掛けて掠った武骨な指に、何の感情を見せることなく、テセウスが淡々と言う。
「それは、可能性の話なのか?時期の話なのか?どっちなんだろうか?」
ダンブルドアの問い掛けに、どっちでも、と溜息交じりにテセウスが答えた。
鏡に映る二人の姿に目を戻し、テセウスは男が二人並んでるだけじゃないか、とつらつらと思う。
「とにかく、貴方が僕との約束を守ってくれたなら。きっと、僕は、これで良かったんだ、と納得して生きていけると思う」
そう言って、鏡越しにダンブルドアと目を合わせると、テセウスはそれじゃ、僕はこれで、と扉に向かって歩き出そうとして、手を取られた。
「テセウス」
立ち止り、テセウスが振り返ると、ダンブルドアは掴んだ手をぎゅっと握りしめる。
「私は君との約束を必ず守る。必ずだ」
握られた手から何か熱い波が流れ込むのを感じて、テセウスはゆっくりと瞬くと、小さく頷いた。
「僕は貴方を信じています。アルバス」
テセウスの言葉に、ダンブルドアがふっと力を抜いたように笑うと、そっと手を放す。
「それじゃあ」
「ああ。皆に宜しく伝えてくれ」
テセウスは小さく頷くと、旋毛風と共に姿を消した。
テセウスが居た筈の床を見つめて、ダンブルドアはありがとう、と小さく呟く。深く長い息を吐き出すと、お暇するよ、と大きな声で二階に向かって叫ぶと、ダンブルドアはパブを出て、学校への道のりをしみじみと歩いて行った。
「僕は、何度だってやります」
元教え子の、世界と積極的に関りを持つという宣言に、ダンブルドアは内心驚いてはいたが、けれども顔に出すことなく、その言葉を受け入れる。
「だって、貴方はテセウスと約束したでしょう?」
だから、僕は何度だってやります、そう言って、僅かに目を瞠ったダンブルドアに笑って、じゃあ、行きますね、と踵を返し、パン屋の中へ戻ろうとして、次々と訪れて来た招待客達と挨拶を交わすニュートに、ダンブルドアは成程ね、と大きく息を吐き出した。
テセウスの為に。
我々を結びつける絆だな。
そう独り言ちて、ダンブルドアはベンチの上から静かに姿を消した。
パン屋の中からは、暖かな光と、話声、楽しそうな笑い声が漏れ、周りの暗い夜道にあって、唯一の希望であるかのように燦燦と光り輝いていた。